昨日、買物のついでに赤鉛筆を買ってきた。今まで本を読みながらポイントをチェックするのに、ポストイットを使っていたが、面倒になったため。
能率は上がる。本は汚れるが、どうせ古い本が多いので、構わないことにした。赤ボールペンだと手が汚れたり、裏写りしたりで好ましくない。
能率は上がる。本は汚れるが、どうせ古い本が多いので、構わないことにした。赤ボールペンだと手が汚れたり、裏写りしたりで好ましくない。
『マイルス・デイビス自叙伝 2』のつづき13章。(12章のモード奏法は後回し。)
赤鉛筆でマークしたところは...
1960年ころ、オーネット・コールマン他の「フリー・ジャズ」がはやった。俺(マイルス)はすべてのスタイルができるので、彼等の唯一のスタイルに合わせて演奏もしてやった。クールだけれどなんの様式も構造もない。
1961年プロデューサーのテオ・マセロは録音テープを切り貼りして編集する技を使いだした。「ポーギーとべス」や「スケッチ・オブ・スペイン」あたりからだ。
「サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム」のジャケットにに当時珍しかった黒人女性のポートレートを使わせた。当時の恋人フランシスだ。馬鹿げたライナーノーツをやめさせもした。音楽はそれだけで何かを語るものだ。
カーネギーホールにも出演し、年に20万ドル稼げるようになった。
トレーンやビル・エバンスがヘロイン中毒になっていた。困ったものだ。俺は家ではクラシックを聴いていたが、ビルの影響だ。
1962年オヤジが交通事故の後遺症で60で死んだ。落ち込んだ。
トニー・ウィリアムスやハービー・ハンコックをスカウト。このころからバンドリーダーとしての才能が開花したらしい。
1964年東京へ行った。ビューティフルな人々がいた。
ジャズは死んだという人々がアメリカでは増えた。フリ一ジャズの影響だ。ジャズは過去のものになり、お勉強するものになっちまった。
ジャズクラブは店をたたんだ。ミュージシャンも元気なくなった。一所懸命働き、演奏し、他と一緒にやろうとする意欲のあるミュージシャンがいれば偉大なバンドができるのに。
俺のところにはトニーやウェインやロンやハービーがいた。俺はただのリーダーだった。俺と一緒にやりいずれはリーダーになる奴等だった。
1965年、「E.S.P.」、「マイルス・スマイルズ」、「ソーサラー」、「ネフェルティティ」を作った。
有名人ともいろいろつきあった。覚えているのはジェームス・ボールドウィンだ。偉大な人だった。南フランスの彼の家で過ごしたものだ。
病気をしたが、良くなった。1968年「キリマンジャロの娘」を作った。チック・コリアやロン・カーターと。(72ページ)
ジェームス・ボールドウィンの代表作『Go Tell it on the Mountain』を読んでみた。感じをつかむのでKindleのサンプル版で充分。英語圏のやや有名な作家なら、かなりの著作がKindle化されている。サンプル版でよければ無料で読める。必要となったら購入すればいい。便利だ。
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