体調がすぐれないときは読書よりも、ビデオ鑑賞や音楽を聴くのが楽で良い。テレビを見るのもきつくなることがあり、ラジオかまれ親しんだ音楽に切り替える。
今朝、食事をしながらユーミンの作った「フェアウェル・パーティー」を聴いていたが、昔の彼氏や先生の言葉は覚えていないが、顔や仕草は思い出すという一節があった。
突然、中学の世界史の後藤先生を思い出した。メガネをかけて長身色白の先生だった。「橋の下の文庫」(なぜ橋の下の文庫なのかは知らないが)と、自分の口を両手の指で横に拡げながら言ってみろと、授業中に突然言い出す。やってみるとわかるが、「bunko」とはどうしても言えず「b」が発音できない。クラス内は大盛り上がり。
世界史の授業も面白かった記憶はあるが、具体的な事柄はアタマから抜け落ちている。ただし、歴史は面白いということのみ体に染み付いたが、それが大切なことだろう。本当の教育者だったわけだ。感謝している。
『マイルス・デイビス自叙伝 2』はそろそろ佳境を通り過ぎようとしている。1984年、「デコイ」でまたグラミー賞。
「ユア・アンダー・アレスト」をレコーディング。この題名は有名にも関わらず、白人には迫害を受けていた現実が反映している。かなしいことだ。デンマークで「ソニング賞」(?)を受賞。普通はクラシックの音楽家に与えられる賞だ。
1985年。「オーラ」を録音。
コロムビアは俺よりウィントン・マルサリスを厚遇。たしかに技術はあるが、立派なジャズを演奏するには人生に対する理解や感情が大切なんだ。
「ユア・アンダー・アレスト」はコロムビア最後のレコード。ワーナー・ブラザースに移る。移籍金は7桁だ。1986年にかけて世界ツァー。絵を描き始める。コレクションも始めた。
読書はしないが、新聞や雑誌はよく読んだ。そこから情報を得る。CNNもよく観た。糖尿病が悪化し、インシュリンを打ち始めた。
1985年シシリーとの関係が一層悪化した。友人でいるべきだった。神経症をわずらった。でも彼女は1986年に俺の60歳パーティーを開いてくれた。
1986年。「ツツ」をレコーディング。多重録音手法を採用。プロならできる。
ホンダのバイクのCMにちょっと出演したら、ものすごく人気が出た。これが音楽活動の成果なら嬉しいのだが。(218ページ 次回最終です。)
マイルスの晩年は、高級車フェラーリに乗り有名人と付き合うような栄光の中に、人生の苦さがにじみ出る日々だった。幸せだったら素晴らしい音楽は残されなかっただろう。しかし、彼の苦しみの中に芸術家の宿命が如実に現れる。それだからこそ、彼の音楽を聞きたくなる。
凡人の戯言ではあるが。
『ドゥルーズの思想』より。
「裁判官であるよりは掃除婦でありたい。人生で道を誤った人ほどお説教をしたがるものだ。」
0 件のコメント:
コメントを投稿