超ロングセラー「理科系の作文技術」には『まとまった文章を書き始める前に目標規定文を書きなさい』という教えがあった。目標規定文は、その後に長く続く文章の設計や記述や推敲の道標となる。
目標規定文は、どうしても必要なら書き直しても良い。文章を書いているうちに新たな知見が生まれることが有るからだ。
ブログを書く場合、たいていはブログの題名を決めてから書く。そうしないと議論が発散してしまうことがあり、いわゆるとっちらかった記事になってしまう。この面ではブログの題名は「目標規定文」ににているけれど、毎日ブログを書いていると、題名とは関係ない方面に話題が進んでしまうことが有る。横道にそれる、枝葉末節に入り込んでしまう、など。
かなり以前から、日記や旅行記を読むのが好きだった。日記で私の狭い読書範囲内で最も浩瀚なものは、「トーマス・マン日記」である。ドイツ語は不得手なので、邦訳を読んでいるけれど、断続的では有るが10年以上読み続けてもまだ終わらない。やっと第二次大戦が終わった所まで来た(読み進んだ)。邦訳本が高価なので、新本ではとても買えない。最初の数巻は出版してからだいぶ経っていたので、それぞれ数千円で買えた。これから読みたい部分は新本と古本ともに高価。数年様子を見ようと思っている。その間ヒマなので安い独語版を読もうとドイツ語を習いはじめた。ものになるには2年ぐらいかかりそうだ。時間がかかるほど都合がいい。
枝葉末節にいってしまった。話を元に戻す。
日記が何故好きか。それは筆者の考えがどんどん変わっていくのを見届ける楽しみである。ある経験をした筆者は、もともと持っていた思想をガラリと変えることがある。好意的に言えば成長だし、悪意を持ってみれば変節。私は人がいいので、全てを成長と見る、あ、少なくとも変移以上のものとみなす。
旅行記は、日記のこの性質をもっと劇的に短時間で見せてくれる。旅先のハプニングは本人にとっては大変だが、それを観ているものにとっては筆者本人の反応が面白い。たとえば、辻邦生さんの仏国への旅行記では、旅行中に運転していた車が故障したり、車上荒らしに遭う。そこで彼が落ち込む様と奥様がなぐさめる様子が興味深い。
面白いだけでなく、出来事と筆者の遭遇による変貌は、積極的な意味がある。文学的にも論理的にも筆者の考えが他の人の考えや事物の影響により、発展したり変化したりする。通常は、考えが蛸壺から出て、良い方向に進む様子が、日記や旅行記に見て取れる。
可愛い子には旅をさせるべきだ。自分の可愛い思想を世間の荒波に晒してより洗練されたモノに変化させるべきなのである。
昨日まで読んだ多和田葉子さんの「言葉と歩く日記」(日記と有るが旅行記でも有る)はこのような次第で本当に楽しく読んだ。通奏低音のような主題が「言葉」なのでより興味深く読めた。芭蕉の旅行記たちとも通じる面白さ。
ブログは日記や旅行記の一ジャンルと言えるだろう。ブログを書き、題名と文章の齟齬になやみ、書き直す。翌日の自分も含めた読者の目に晒すことにより、ブログ記事は発展の糧を得る。
ときどき、ブログ自体が意思を持っていて、自分はそれに使役されているのではないかとも妄想する。古代エジプトの書記の生活をも連想する。円城塔さんの作品も。
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