「完全なる自伝」を読み続ける。なんで「完全なる」なのだろう。まだギモン。
いま読んでいる、第一巻の250ページ付近から、しばらくホーネット号という帆船が火事をおこし、乗組員や乗客が船長の指揮のもと小さなボートで漂流した話が収録されている。
マーク・トウェインが1866年にハワイに居て、漂流者の取材をして、記事を書き、これが物書きとしての登竜門となった。と本人が書いている。この断片はしかし、ずっと後に1898年ごろウィーンで書いたもの。
かれの持論は、自伝は年代にとらわれず、書きたい時に書きたいものを書く、というものだった。それが如実に現れている。
マーク・トウェインはそれで気持ちよく書けるのだが、読者は神経を使う。常にいつのことをいつ書いているのか意識しなければ、意味がわからなくなる。
この断片では、最初にマーク・トウェインの注釈があるので、この点ではわかりやすい。ストーリーもはっきりしているので読者としては楽である。
ただし、これが自伝なの?というギモンは生じる。昔書いたこんな記事があるけどすごいだろう、こういう話だとえんえんと続くからだ。
他の断片も自分の経歴とは一見関係ないことが、多いようだ。よく考えると、彼の人生に少し影響を与えているといったお話など。
こんな自伝ははじめてだが、マーク・トウェインが現代に居たらきっとブログにこれを書いただろう。公開性が問題になるが。
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アシモフの年代記でない自伝「I, Asimov」はテーマ別の記述になっているが、マーク・トウェインの(公開はされていないが、内容をしっていた可能性はある)自伝を真似したのだろうか。面白い宿題を見つけてしまった(^o^)
ここまで書いて、もう一つ連想した。司馬遼太郎の「空海の風景」。司馬遼太郎は小説にはなにを書いてもいいと言って、取材の内幕などを小説に書き込む。達人は何をしても上手く出来るということ。
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「完全なる」の意味はまだわかりません。
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