2018年1月16日火曜日

「復活の日」の教訓をいつ活かすのか、そして「百年泥」が芥川賞受賞



 「復活の日」(小松左京 1980年版 角川書店)を読んだ。1966年に早川書房から出ていて、そちらを手にとったが、買わなかった記憶がある
^^;

 映画は2,3年前にAmazon Primeで見せていただいた。

 多くの場合と同様、映画と小説の与える印象はまったく異なる。「復活の日」では、小説のほうが断然いい。小松左京の訴えたいところが、映画によるイメージでは伝えきれないからだ。

 科学者と科学行政者に、権力と戦って、自分の良心にしたがった意思決定をするように求める。1960年台には、この主張はアタリマエのこととして多くの人が認めていただろう。そして、このような行動を実際に取ることも可能なことが多かったと思える。しかし、このような主張に従ったタタカイを徹底しなかったという引け目を持つ人がいただろう。たとえば、原子力発電。核兵器開発。

 現在もこの主張は正しいとする人が過半と思える。しかし、実際に行動が取られているかは相当にギモンである。

 「復活の日」の事態(人類滅亡の危機)は、いつでも起こりうる。

 もちろん科学者たちだけでなく、政治に携わる人間の見識が必要である。でもここに頼るのはもっと危うい。小松左京の描写する、米国の暴君大統領とそれを選挙で選んでしまう国民の愚かさは、50年後の今、もう現実のものとなっている。世界は危うい「崖」の上で回転している。

 このSF小説は、この視点から評価すべきであって、若書きだとか描写がくどいとか長いとかを問題にするのは本末転倒の論説にすぎない。

 「復活の日」の訴える所は、発表されたときよりも、何倍も切実なものとなっている。われわれ人類はこの半世紀の間、幼稚化しているのか…

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 少し視点を変えて、国会図書館で白瀬矗の「南極記」を眺める。でも憂いは晴れない。

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 昨年「新潮」で読んだ「百年泥」が芥川賞受賞。石井遊佳さんおめでとうございます。確かに、妙に面白い、読みだしたら押し流されるように読んでしまう小説でした。今後のご精進を祈ります。

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