2018年11月3日土曜日

百鬼園先生の最後のお勤めは日本郵船の嘱託、仕事は書類文章の添削だけなのである意味で羨ましい

 今朝のベランダの赤とんぼ。寒いのかあまり元気がない。日向ぼっこ中。


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 「けぶりか浪か」(内田百閒)を読み終えた。昭和14年に辰野隆の推薦で日本郵船の嘱託として勤め始める。水曜日を除く平日の午後、丸の内の郵船本社の二五畳はあろうという広い部屋にひとり座って、社員の書類の文章の添削をする。もらった辞令の文章も添削している。「嘱託ヲ命ズ」は「嘱託ヲ嘱託ス」が正しいのだとか。社員は困っただろう。月給200円。優遇と思える。

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 「百鬼園戦後日記(上)」(1982年 小澤書店)によると、敗戦の年、昭和20年11月に日本郵船を辞めている。その際に会社で使用していた辞書類(大日本國語辭典五冊や上海版辭源など)を自宅用に貰い受けている。自分の辞書類も空襲で焼いてしまったから。最期のころの通勤の途中では、闇市で食料品などを買い求めている。生活のためであり恥ずかしいなどとは言っていられなくなった。

 翌年昭和21年1月。掘っ立て小屋に暮らしているので寒くて、体調をこわす。百閒先生は、酒を飲めば治るからと、つてをたどって、しきりに酒を買い求めて飲みまくる。なんともおかしい。先生は1989年生まれなのでこのころは55・6歳。そろそろムリが効かなくなる年頃だろう。血圧(高い)も心配である。

 どうも他人事とは思えない。同じような(というと失礼に当たりそうなので、同じ雰囲気の)生活をしているような気がしてきた。

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