鷗外の『秀麿もの』 辰野隆
夏休みの徒然に、鷗外全集(著作篇)第三卷を書架から取り出して、「かのやうに」、「吃逆」、「藤棚」、「鎚一下」を久しぶりで讀みなほして見た。嘗て愛讀した佳什を時を隔てゝ再讀三讀するのは如何にも樂しいものである。この四つの短篇は明治四十五年一月から大正二年七月まで一年半の間に「藤棚」は太陽に、他の三篇は中央公論に發表された。何れも獨逸で史學を修めて歸朝した五條秀麿といふ若き貴族學徒の人生觀、社會觀を述べた知的な短篇だが、主人公秀麿の思想は當年の鷗外の思想と認めて大體誤りないやうである。
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この『秀麿もの』とも呼ぶ可き短篇中の「かのやうに」の中に、ヰルヘルム二世と神學者アドルフ・ハルナックとの君臣の間を論じて、人主が學者を信用し、學者が獻身的態度を以て學術界に貢獻しながら、同時に君國の用をなす點を褒た一節がある。
『‥‥政治は多數を相手にした爲事である。それだから政治をするには、今でも多數を動かしてゐる宗教に重きを置かなくてはならない。ドイツは内治の上では、全く宗数を異にしてゐる北と南とを擣きくるめて、人心の歸嚮を操つて行かなくてはならないし、外交の上でも、いかに勢力を失墜してゐるとは云へ、まだ深い根柢を持つてゐるロオマ法王を計算の外に置くことは出來ない。それだからドイツの政治は舊教の南ドイツを逆はないやうに抑へてゐて、北ドイツの新教の精神で、文化の進歩を謀つて行かなくてはならない。それには君主が宗教上の、しつかりした基礎を持つてゐなくてはならない。その基礎が新教神學に置いてある。その新教神學を現に代表してるる學者は、ハルナックである。さう云ふ意味のある地位に置かれたハルナックが、少しでも政治の都合の好いやうに、神學上の意見を曲げてゐるかと云ふに、そんな事はしてゐない。君主もそんな事をさせようとはしてゐない。そこにドイツの強みがある。それでドイツは世界に羽をのして、息張つてゐることが出來る。それで今のやうな、社會民政黨の跋扈してゐる時代になつても、ヰルヘルム第二世は護衞兵も連れずに、侍從武官と自動車に相乘をして、ぷつぷと喇叭を吹かせてベルリン中を駈け歩いて、出し抜に展覧會を見物しに行つたり、店へ買物をしに行つたりすることが出来るのである。
ロシアとでも比べて見るが好い。グレシア正教の寺院を沈滞の儘に委せて、上邊を眞綿にくるむやうにして、そつとして置いて、黔首を愚にするとでも云ひ度い政治をしてみる。その愚にせられた黔首が少しでも目を覺ますと、極端な無政府主義者になる。だからツアアルは平服を著た警察官が垣を結つたやうに立つてゐる間でなくては歩かれないのである。』
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僕は右の一節を讀んで、鷗外の視たドイツもそれほど安定したものでもなかつた事を歴史が證明したと思つた。觀察も豫言もあまり當てにはならない。「かのやうに」は明治四十五年の發表であるから一九一二年で、カイゼルの全盛期でもあり、ドイツが世界征服を、夢みてゐた時代であつた。然るに二年後には歐洲第一次大戦となり、ドイツは聯合國から袋だゝきの憂き目に會つて、手も足も出ぬ非運を嘗めた。カイゼルとハルナックとの君臣の理想的關係も崩壞してしまつた。獨露の帝政は倒れ、やがて歐羅巴は民主閥と獨裁國とに別れて對立抗爭し、今や獨裁國は民主國を脚下に蹂躙せんとしてゐる。ヒットラアに依る復讐戰が平和への工作なりや、更に新しき戰亂の準備なりやは未だ何人も見極め得ない。
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鷗外はカイゼルとハルナックとの間を人主と學者との模範的な契合と見做したが、十八世期のフリイドリッヒ大王とヴォルテエルとの關係は、一君主と外國の文豪との一層模範的な親睦ではなかつたらうか。餘計な推測だが、カイゼルとハルナックとの關係は寧ろ伊藤博文と末松謙澄、山縣有朋と鷗外との關係をいささか想ひ出させぬでもない。
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鷗外が豫言者でなかつたことは文豪鷗外の價値を増減するものではない。現に『秀麿もの』四篇と雖も、今に至るまで生きた問題を提供して潑剌たる興味をそゝるのである。「かのやうに」には國體と修史、「吃逆」には國家と宗教、「藤棚」には社會と秩序、「鎚ー下」には峻嚴なる勞働の意義が極めて冷靜な態度と冷徹な行文とに據つて解説されてゐる。左に「藤棚」から更に一節を引いて、今なほ生命のある言辭を味ひ度い。
『‥‥話は又一轉して、近頃多く出る、道徳を看板に懸けた新聞や小册子の事になつた。‥‥書く人は誠實に世の爲、人の爲と思つて書いても、大抵自分々々の狹い見解から、無遠慮に他を排して、どうかすると信数の自由などと云ふものの無かつた時代に後戻りをしたやうに、自分の迷信までを人に強ひやうとする。それを聽かないものに、片端から亂臣賊子の極印を打つ。これも矢張毒に對する恐怖に支配せられてゐるのである。幸な事にはさう云ふ運動は一時頭を擡げても、大した勢を得ずにましまふから好いが、若しそれが地盤を作つてしまふと、氣の利いたものは面從腹誹の人になる。人に僞りを教えるのである。人を毒するのである。毒に對する恐怖が却て毒を釀し出すことになる。』
この感想は明治四十五年代の赤い思想やアンデパンダンな思想の人士からは最もなまぬるい、妥協的見解として、鼻であしらはれる患いひがないではなかつた。が然し、今はさうではない。
(昭和十五年夏)
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出典 『印象と追憶』(辰野隆) 昭和15年 弘文堂刊
国会図書館デジタルコレクション
(下の画像も)
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(あとがき)
OCRの原稿作成には画面キャプチャーでなく、国会図書館デジタルのPDF作成機能を使うのが良い。トリミングと、(場合いによって)画質調整が必要。
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