2019年5月11日土曜日

なんとか「文学論」がまとまった…めでたい

漱石 「文学論 序」の続き…

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留學中に余が蒐めたるノートは蠅頭の細字にて五六寸の高さに達したり。余は此ノートを唯一の財産として歸朝したり。歸朝するや否や余は突然講師として東京大學にて英文學を講ずべき依囑を受けたり。余は固よりかゝる目的を以て洋行せるにあらず、又かゝる目的を以て歸朝せるにあらず。大學にて英文學を擔任教授する程の學力あるにあらざる上、余の目的はかねての文學論を大成するに在りしを以て、教授の爲に自己の宿志を害せらるゝを好まず。依つて一應は之を辭せんと思ひしが、留學中書信にて東京奉職の希望を洩らしたる友人(大塚保治氏)の取計らひにて、殆ど余の歸朝前に定まりたるが如き有樣なるを以て、遂󠄂に淺學を顧ず、依托を引き受くる事となれり。

講義を開く前には如何なる問題を擇ばんかと苦心せるが、余は今日文學を研究する學生に取っては、余が文學論を紹介するの、最も興味多く、且時機に適せるを感じたり。余は田舍に教師となり、田舍から洋行し、洋行から突然東京に舞ひ戾つたる人間なり。當時わが中央文壇の潮流が如何なる方面に動きつゝあるかは、殆ど知るべくもあらず。去れど摯實なる勞力に因って得たる結果を最も高等なる學問を修めて、未來の文運を支配する靑年の前に披瀝するは余の最も光榮とする所なるを以て、先づ此問題を選󠄁んで學生諸子の批判を仰がんと決意せり。

不幸にして余の文學論は十年計畫にて企てられたる大事業の上、重に心理學社會學の方面より根本的に文學の活動力を論ずるが主意なれば、學生諸子に向つて講ずべき程體を具せず。のみならず文學の講義としては餘りに理路に傾き過󠄁ぎて、純文學の區域を離れたるの感あり。余の勞力はこゝに於て二途に出でたり。一は纒まらぬものを既に蒐集せる材料にて、ある程度迄具體的に組織する事なり。二は略系統的に出來上がりたる議論を可成純文學の方面に引き附けて講說する事なり。

身心の健康及び使用時間の許さぬうちに在って、此兩者を能くし得たり、とは決して思はず。されども其企てが如何なる事實となってあらはれたるかは、此書の内容の證明する所なり。講義は每週三時間にて、明治三十六年九月に始まつて三十八年六月に渡り、前後二學年にして終る。講義の當時は余が豫期せる程の刺激を學生諸子に與へざりしに似たり。

第三學年にも此講義の稿を續くべかりしを種々の事情󠄁に遮られて果たさず。已に講述󠄁せる部分の意に滿たぬ所、足らざる所を書き直さんとして又果たさず、約二年の間其儘にて筐底に橫たはりしを、書肆の乞ひに應じて公にする事となれり。

公にする事を諾したる後も、身邊の事情󠄁に束縛せられて、わが舊稿を自身に淨寫する暇さへ見出だし得ず。已むを得ず、友人中川芳太郎氏に章節の區分目錄の編纂其他一切の整理を委托す。

中川氏は此講義のある部分に出席したる上、博洽の學と篤實の質をかねたれば、余の知人中にて、かゝる事を處理するに於て最も適當の人なり。余は深く氏の好意を德とす。苟も此書の存せん限り、氏の名を忘れざるを期す。氏の親切によらずんば、現在の余は遂󠄂に此書を出版するの運びに至らざりしならん。況や中川氏他日若し文界に名を成さば、此書或は氏の名によって、世に記憶せらるゝに至るも計るべからざるをや。

以上述べたる通り、此書は余の熱心なる勞力によって組織せられたるものなり。但十年の計畫を二年につゞめたる爲(名は二年なるも出版の際修正に費やしたる時間を除いて實際に使用せるは二夏なり)、又純文學學生の所期に應ぜんとして、本來の組織を變じたる為、今に至って未成品にして、又未完品なるを免れず。去れども學界は多忙なり。多忙なる學界に於て、余は他より一倍多忙なり。足らざるを補ひ、正すべきを正し、繼ぐべきを繼いで、然る後、世に問はんとすれば、余が身邊の狀況にして一變せざるよりは、生涯の日月を費やすとも遂󠄂に世に問ふの期はあるべからず。是れ余が此未定稿を版行する所以なり。

既に未定稿なるが故に現代の學徒を教へて、文學の何物たるかを知らしむるの意にあらず。世の此書を讀む者、讀み終りたる後に、何等かの問題に逢着し、何等かの疑義を提供し、或は書中云へるものよりも一步を進め二步を拓きて向上に路を示すを得ば、余の目的は達したりと云ふべし。學問の堂を作るは一朝の事にあらず、又一人の事にあらず、われは只自己が其建立に幾分の勞力を寄附したるを、義務を果たしたる如くに思ふのみ。

(続く)
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出典 
『漱石全集 第八巻』大正9年 漱石全集刊行会

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あとがき
未完成ながらも、「文学論」を出版したいきさつ(悪くいうと弁解)が書いてある。結果としてはこの機会(本人は嫌だと言う大学での講義)がなければ、「文学論」は出来なかっただろうから、良かったということになる。「義務を果たした」という感想はもっともであろう。

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昨夜Twitterで紹介していただいた、「青空文庫作業マニュアル【校正編】」は参考になる。チェックするポイントがまとまっている。
ただし、青空文庫ではストイックに機種依存文字を排除しているが、私は読み易さを考えてUTF-8でいいことにする。

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昨夜のケーキを今日も食べた。

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