昨日の「月刊ALL REVIEWS友の会」の課題図書は『ふたつのオリンピック』で、ホワイティングさんの「猥雜都市東京」の描写が面白い作品だった。
東京の昔を語ると言えば、私は植草甚一を思い出す。だから、『植草甚一自伝』(1979年 晶文社)を引っ張り出して読んだ。その143ページに平田禿木訳の『虚栄の市』を読んで感心する話が載っている。平田禿木のお墓は回向院の、植草家の墓と背中合わせにあるのだそうだ。知らなかったので少し調べたら、偉い英文学者だったらしい。そこで、人となりがわかりそうな本を国会図書館で探した。次の本がよさそうだ。絶筆も収められたエッセイ集だ。少しデジタル化してみた。
『禿木遺響文学界前後』の第一部「絶筆 文學界前後」より「一高入學前」(平田禿木)
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一高入學前
指折り數へれば今から半󠄁百年以上の昔、明治十八年(一八八五)の今頃であった。その夏は今年も同じやうに、とても怖るべき暑さであつた。十三歲の少年であつた自分は、眞田編み廣緣の海水帽󠄁を被つて小倉の袴をはき、江戶橋の家を出て、その頃あつた鐵道馬車へも乘らず、室町の大通󠄁りを颯爽と神田の方へ步いてゐた。淡路町にあった豫備校共立學校(今の開成中學の前身)へ通ふ爲めである。七月二十日に前學期が終󠄁つて、八月一日にはもう新學期の開始である。校長は高橋是清氏であつたが、校務一切は敎頭の鈴木友雄氏が取りしきつてやつてゐた。先生であつた法科大學の學生連その他も、暑い中を皆さつさと徒步でやつて來た。ミッドル・テムプル法學院の業を卒へて歸ったばかりの土方寧氏などはいつもブライヤー・パイプを啣へて敎壇の上へ兩足を投げ出してふんぞり返つてゐたが、呼び賣りの氷屋から氷の大塊を買ひ取つて、それを他の教室へも分け、自分はそれを頭上へ載せて平氣で講義をしてゐた。先生始め、一面そんな亂暴なとこもあつたが、敎場は實に靜かなもので、學生は皆熱心に傾聽してゐた。多くは山の手の官吏の子弟で、地方から來てゐる者もあつたが、下町から通ってゐる者は極めて少なかつた。自分の家の近くからは瀨戶物町の鰹節問屋にんべんの若主人高津伊兵衞氏が來てゐた。二子縞の對を着て、角帶に前掛をかけ、着流して半靴ばきといふいでたちであつた。伊兵衞氏はぢき退學して店の方へ出られたが、その弟の、六平さんといって、後同家の地所掛になった人はしばらく通學してゐ、自分と一緒によくあの室町から神田への大通りを步いたものだ。少しく隔つた馬喰町からは、それから少し後に、花王石鹸の平尾賛平氏が來てゐ、これも高津氏同樣、着流し靴ばきであった。が、共立學校に限らず、近處から學校へ行つてゐる者は至つて少なかつた。後に知つたことであるが、本町四丁目角の砂糖問屋(*)の次男息子星野愼之輔氏(後の天知氏)は駒場農科大學の林學科にゐた。その弟の男三郞氏は當時東京で唯一の府立であった日比谷の一中へ通󠄁つてゐた。同三丁目書肆瑞穗屋清水卯三郞氏の一人息子連(むらじ)氏も同様で、二人は非常に親しくしてゐた。これは又ずっと後になって、「帝國文學」が出てから初めて知つたことであるが、例の「みすゞ高かや」の詠で名高い羽衣武島又次郎氏は、自分と同じ伊勢町通りの、が、ずつと西寄りの手拭問屋の息子さんで、何處かの豫備校へ通󠄁つてゐたらしい。近くのインテリ子弟といつては、ざつと先づそんなものだつたのである。
註
(*)にはこんな屋号が挟み込んであった。「ヤマニ」とでも読ませるのか?
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出典 『禿木遺響文学界前後』(平田禿木)昭和18年 四方木書房
国会図書館デジタルコレクション(下の画像も)
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あとがき
当時(明治10年から20年)ころの学生の風俗がわかって面白い。禿木のエッセイはこの後が面白くなりそうだ。
なお、青空文庫に平田禿木のエントリーがある。
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昨夜の記念写真を貼っておく。左は泉麻人さん。お話がとてもおもしろく、ファンになった。何冊か著書を借りて(図書館で)読んでみたい。
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