クリストチヤーチのトルストイ村
▲トルストイと云へば、日本で一番廣まつた英譯本は英國のクリストチヤーチで出版された『フリー・エージ・プレス』といふ綠表紙の假綴本の三六版大の杜翁叢書だが、此のクリストチヤーチのトルストイ村の頭目はチエルトコフといふ露西亞人で、此の一群のトルストイヤンの英國移住に就ては面白い話がある、今から三十五六年前莫須科市にボスレドニツクといふ出版會社があつた。ピルコフ及びチエルトコフ夫妻の共同經營で、創業後忽ち成功して露國一流の出版書肆となった。然るにチエルトコフ夫人の妹はトルストイの子息と結婚して姻戚となった。其關係からしてトルストイ全集を出版した上にトルストイ宗の熱心な歸依者となって、盛んにトルストイ主義を宣傳すゐ目的で極めて安價な、前後に類の無い五錢とか三錢とか、甚だしきは二錢、一錢、五厘といふやうな、怎んな貧乏人にでも買へる低價でトルストイの小著を賣出した。其結果トルストイ主義は瞬く中に露國の隅から隅まで傳播したので、露西亞政府の驚くまい事か、周章狼狽して種々の手段を講じて百方妨碍した。が、少しも效が無いので、到頭トルストイの著述を一切出版する事を禁止して了つた。其飛沫がドストエフスキイやガルシンやポテーキンの著書にまで及んで、擧句の果は恐怖の餘りに脱線して露西亞正敎會の聖人と尊󠄁ばれているザドンスキーの說敎集は魯か聖書抄錄の山上垂訓の小册子まで禁止する滑稽沙汰となった。露西亞政府の神經的な眼からは神の言葉ですらが危險と見えたのであらう。恁うなると、チエルトコフ一派は手も足も出なくなって、寧そ外國へ移住しやうかと思ふ矢先にヅホポール事件が起つて露西亞政府の人道上の罪悪に對するトルストイの大彈劾となった。處が政府は肝腎の本尊󠄁のトルストイには手を着けないで、其思想を宣傳した門下のチエルトコフを初め一同を拿捕して國外退去を命じた。そこでチエルトコフ以下は皆英國へ逃げてクリストチヤーチに居住し、同志の露人十五名と謀って印刷業を初め、其の手初めに故國で禁止されたトルストイの小著を出版した。處が誰云ふとなく、露國の無政府黨目が集團してダイナマイトを密造してゐると云ふ風說を立てたので、一時英國官憲の嫌疑を招いたが、まもなく素性が明かになってダイナマイトの製造でなくて平和な福音の印刷頒布であるといふ事が解つて來た。然るにチエルトコフはトルストイと姻戚である關係上、露西亞を退散する時杜翁の草稿を一切揃へて、未刋の原稿までも盡く携へて來た。此噂を傳聞して世界の各所から讓受けを申込み、中には莫大な報酬を以て釣らうとするものもあつた。が、チェルトコフは算盤を彈く普通の出版人で無い上に、杜翁の著書の出版の爲めに故國を追放されたのだから本國政府に反抗する意地にも自から出版して主義を宣傳する決心を固くし、算盤づくの相談は斷然拒絶して應じなかつた。渠は先づ、トルストイの禁書を露文で印刷して本國に密輸󠄁入する傍らトルストイ全書を英譯し、トルストイ主義の雜誌をも刊行して世界の隅々までトルストイ主義を傳道しやうとした。クリストチヤーチは一時トルストイ思想宜傅の根據地となって、其刊行物は洽く世界に廣布された。日本に輸入された部數だけでも、恐らく數萬を下らないだらう。トルストイの思想が日本の邊土にまで傳播したのは德富蘆花の力でも松井須磨子の藝術の爲めでもなくて、全く此のチエルトコフの刊行物のお庇である。
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出典
内田魯庵 『貘の舌』 大正14年 春秋社
国会図書館デジタルコレクション(下の画像も)
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あとがき
内田魯庵と丸善の事を調べているうちに発見した本。これも面白い。版面もきれいに画像化されているので、読みやすい。「莫須科」はモスクワのことか。
ところで、丸善の社史である『丸善百年史』の全文がここに公開されている。
素晴らしい。
http://pub.maruzen.co.jp/index/100nenshi/index.html
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