iPhoneカメラで本(全集 第八巻)を直接撮り、OCRにかけました。
これの校正(約十箇所修正)にかかった時間は、30分で、私としてはかなり速い方です。
***
序
余は此書を公にするにあたって、此書が如何なる動機のもとに萌芽し、如何なる機緣のもとに講義となり、今又如何なる事故の爲に出版せらるゝかを述󠄁ぶるの必要あるを信ず。
余が英國に留學を命ぜられたるは明治三十三年にて余が第五高等學校教授たるの時なり。當時余は特に洋行の希望を抱かず、且他に余よりも適當なる人あるべきを信じたれば、一應其旨を時の校長及び教頭に申し出でたり。校長及び教頭は云ふ、他に適當の人あるや否やは足下の議論すべき所にあらず、本校は只足下を文部省に推薦して、文部省は其推薦を容れて、足下を留學生に指定したるに過ぎず、足下にして異議あらば格別、左もなくば命の如くせらるゝを穩當とすと。余は特に洋行の希望を抱かずと云ふ迄にて、固より他に固辭すべき理由あるなきを以て、承諾の旨を答へて退けり。
余の命令せられたる研究の題目は英語にして英文學にあらず。余は此點に就いて其範圍及び細目を知るの必要ありしを以て時の專門學務局長上田萬年氏を文部省に訪うて委細を質したり。上田氏の答には、別段窮屈なる束縛を置くの必要を認めず、只歸朝後高等學校もしくは大學にて教授すべき課目を專修せられたき希望なりとありたり。是に於て命令せられたる題目に英語とあるは、多少自家の意見にて變更し得るの餘地ある事を認め得たり。かくして余は同年九月西征の途󠄁に上り、十一月目的地に着せり。
着後第一に定むべきは留學地なり。オクスフオード、ケムブリツヂは學問の府として遠く吾邦にも聞こえたれば、其のいづれにか赴かんと心を煩はすうち、幸いケムブリツヂに在る知人の許に招かるゝの機會を得たれば、觀光かたがた彼地へ下る。
こゝにて尋ねたる男の外、二三の日本人に逢へり。彼等は皆紳商の子弟にして所謂ゼントルマンたるの資格を作る爲、年々數千金を費やす事を確め得たり。余が政府より受くる學費は年に千八百圓に過ぎざれば、此金額にては、凡てが金力に支配せらるゝ地に在つて、彼等と同等に振舞はん事は思ひも寄らず。振舞はねば彼土の靑年に接觸して、所謂紳士の氣風を窺ふ事さへ叶はず、假令交際を謝して、唯適宜の講義を聞く丈にても給與の金額にては支ヘ難きを知る。よしや、萬事に意を用ゐて、此難關を切り拔けたりとて、余が目的の一たる書籍は歸期迄に一卷も購ひ得ざるべし。且思ふ。余が留學は紳商子弟の吞氣なる留學と異なり。英國の紳士は學ばざる可からざる程、結構な性格を具へたる模範人物の集合體なるやも知るべからず。去れど余の如き東洋流に靑年の時期を經過󠄁せるものが、余よりも年少なる英國紳士に就いて其一舉一動を學ぶ事は骨格の出來上がりたる大人が急に角兵衞獅子の巧妙なる技術を學ばんとあせるが如く、如何に感服し、如何に崇拜し、如何に欣慕して、三度の食事を二度に減ずるの苦痛を敢てするの覺悟を定むるも遂󠄂に不可能の事に屬す。之を聞く彼等は午前に一二時間の講義に出席し、晝食後は戸外の運動に二三時を消し、茶の刻限には相互を訪問し、夕食にはコレヂに行きて大衆と會食すと。余は費用の點に於て、又性格の點に於て到底此等紳士の擧動を學ぶ能はざるを知って彼地に留まるの念を永久に斷てり。
(續く)
***
出典
『漱石全集 第八巻』大正9年 漱石全集刊行会
***
あとがき
涙ぐましい。年を取ってから行った日本人は、こういう思いだったかもしれません。辻邦生や原二郎先生を思い出す。また、南方熊楠や西脇順三郎の凄さにも思い至る。
「時の專門學務局長上田萬年氏」も調べると面白い方ですね。
どうでもいいあとがき
この漱石全集は昭和44年に仙台で買ったものです。50年前です。この巻が刊行された大正9年は1920年ですから、100年前です。そして、私は明日古稀を迎える(*^^*)
0 件のコメント:
コメントを投稿