2019年6月27日木曜日

OLD REVIEWS試作版第二十一弾…尾上柴舟訳『後西遊記』の訳者序



西遊󠄁記が四大奇書の一として喧傳せられて居るのは、今更云ふを要しない。これが意譯の下に、繪本西遊󠄁記となつてから、殆んど、玄弉法師(三藏)、孫悟空、猪八戒、沙悟淨の名を知らぬものはない。ことに近年に到つては映畫の幕にまで上されるやうになつた。

從來名著には、必ずそれに續くものが現はれて居る。三國志、水滸傳、金瓶梅、各々その後篇となつたものがある。從つて西遊󠄁記にもそれがあるのは當然である。

後西遊󠄁記はすなはち西遊󠄁記に續くものである。三藏法師の後たるべき大顚(半偈)、悟空の裔の孫履眞(小行者)、猪八戒の子の猪守拙(一戒)、沙悟淨の弟子の沙致和(沙彌)が、各々の職分を守つて活躍する事、全くその師,その祖、その親のした如くであつて、更に別樣の性癖と技倆とを發揮して居る。その故に、後西遊󠄁記は西遊󠄁記に比して、一種特有の趣致を持つて居る。

今この後西遊󠄁記を國字に飜して見た。が、逐󠄁字譯はむづかしくて且冗漫に失する。自由譯は樂であるが、原文と離れ過󠄁ぎる。で、繪本西遊󠄁記者のなした如く、務めて大體を捕捉するに留めた。もし、これを本として原書を讀まれたならば、失望せられることが多いであらう。

後西遊󠄁記は寓言である。深遠な教旨哲理を、仙、佛、神、僧、獸、魔を假りて吐露したのであること、全く西遊󠄁記と同樣である。たゞ後西遊󠄁記は西遊󠄁記の後を擴げ、或はその外に出ようとする。こゝに著者の手腕が存するのである。讀者はよくこれを見られねばならぬ。

後西遊󠄁記は全部四十卷である。西遊󠄁記の百回に比すれば、その半にも足らぬ。これは、眞經は繁多、眞解は直截なるに基因する。玄弉の得た眞經は三十五部、馬駄し、人擔つた。大顚の求めた眞解は二小包󠄁、二人一包󠄁を捧げるに止まる、從つて、遍󠄁歴の年月も,玄弉は十五年、大顚は五年、周匝と明快と、此くの如くにして異なると著者は説くのである。これまた讀者の了解せらるべき處である。

以上の四十卷、次を追うて譯したのであるが、たゞ、不老婆々の兩回は、風教を損ふことが多いのを恐れて省略に附した。從つてこゝでは三十八で終りとなつた。讀者は、またこれを諒せられたい。
猶、本書は,乾隆癸卯年新鐫、金閭書業堂梓行、天花才子評點の重鐫繡像後西遊󠄁記を本とした。
昭和二十二年秋
柴舟識

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出典 『後西遊記』尾上柴舟 訳 1948年 堀書店
国会図書館デジタルコレクション
(下の画像も)


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あとがき
今、読み続けている『日本SFこてん古典』の第一巻で紹介された本。尾上柴舟が80歳で亡くなるより、9年ほど前の出版。古稀の頃にはこの『後西遊記』の翻訳を手がけていたわけだ。ちょっと勇気づけられる。

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図書館で『日本SFこてん古典』の二巻と三巻も借りてきた。なにしろ面白く、役に立つ。

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