今日の分で、面白かった部分。(文責 私)
「西洋的の、知の体系の組み立て方っていうのはデカルトに遡るのですね。非常に論理的組み立てが緻密なんですよ。その緻密さでもって吉本を読むと、なんだこれ全然知的な緻密さがないじゃん、これ、ということになるわけですね。僕もそれはある程度予想できたのだけど、でも違うんだよ、やっぱり吉本は偉いんだよ、とずっと思い続けていたんですね。なぜ思い続けていたかというと、やはり世界に先駆けてスターリニズム批判を行った、ということができたと言う、これはね、世界的レベルでも誰もできなかったことなんですね。これね今になって読んでみると誰もわからなくなっているのですけれども、一々検証したら、すごい業績なんですね。*
それがなぜできたかというと、単に戦術的なものとか戦略的なものでないからです、もっと根源的なものなのですね。根源的なレベルにおいて、スターリニズムを批判し、さらにはレーニンを批判し、さらにはマルクスまで遡る。さらにはフロイトの限界を指摘し、というような所までやっているわけですね。そうなってくるとね、この人のレベルは相当にすごいという風な形になる。
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やたらに大衆というものを美化して、勝手に美化した大衆によって自分はで民衆に寄り添って、とかですね今流行の気持ち悪い言葉もありますけれども、ああいうのは大嫌いですね、吉本は。勝手に寄り添うなよ、ということだと思うのですけれども。そういうような感じで勝手にですね大衆とか実像とかそういうものを美化する、あるいは逆に大衆は愚かでありわがままであり、そういうのじゃないんだ。原像、そのまんま、を捉えるべきである。」
吉本隆明を今、読み直すとすると、この辺がポイントになるのだろう。吉本の訴えていたことを、多くの人が無視した結果、現在の悲惨とも言える日本の状況が作り出されてきたからだ。「スターリニズム」批判が、必要なのは自由主義国家の内部でももちろん必要だ。「国家」や「企業」に権力があるという「幻想」を持っていてはならず、それには常に個人の側から異議をとなえていくべきで、それは個人の「幻想」の一部をなす。
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『蝸牛庵訪問記』(岩波書店)を読み続ける。小林勇の筆が、後半になるにつれてどんどん冴えてくる。前半は、古いメモを引っ張り出して引用しただけだったから、無味乾燥だったのだろう。露伴は次第に老いてくる。勉強と称して周の碑文を時間をかけて研究したりしているが、これも本人にとっては実は、やっとのことだったろう。戦乱にも追われ、体も弱くなる。とくに、目が悪くなったのが気の毒。書籍を自分では読むことができなくなったが、周囲のひとに読んでもらった。読んでもらったと言うより、頭に入っている内容の詳細を確認していたらしい。大量の書籍は露伴の疎開先とは別のところに疎開させていた。これも残念だっただろう。どの書籍の何巻目のどの辺にかくかくしかじかのことが書いてあるはずと、指示していたと書いてあるが、堀辰雄が寝たきりになり、奥様に指示をだすとき、別室の書棚のなかの本の位置をピタリと言い当てていたことも思い出してしまった。
戦争末期から終戦後の老いた露伴の記述は、他人事とは思えず悲しくなってしまうので読みたくない、が読みつづけずにはいられない。
露伴は1947年(昭和22年)7月30日に80歳でなくなる。私はあと9年で80歳だが、楽をして生きてきたので、もっと頑張らなくては。
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朝、ベランダで出会ったカマキリの子供。午前中ご滞在。
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