『アシモフ自伝 1上』続きを読む。親の希望はアシモフを医者にすることだが、アシモフ本人はそれほど医師になることへの愛着はない。好きなSFを書くことにすくない暇を費やしている。
279頁。
18歳のアシモフは医学部進学のためいろいろな大学の面接を受けるが、落ちた。彼がユダヤ人のせいもあるが、理由はそれだけではない。容貌、実力、そして・・・
父は悲しんだ。
280頁。
1939年1月5日木曜日、キャンベルは「アド・アストラ」を書き直すように言った。
281頁。
1月10日、「真空漂流」がアメージング誌に出た。プロ作家デビュー。19歳になったばかり。
282頁。
1月31日、キャンベルから小切手が届く。69ドル。6900語だったから。だまって採用作に小切手だけ送るのがキャンベル流。
2月4日。「サイエンス・フィクション」誌に、「太陽に覆いを」が採用された。1語半セント。掲載時支払い。
283頁。~
友人でもある代理人フレッド・ポールに声をかけられたが断る。
2月6日。アメージング誌で「使うのも怖しい武器」採用。64ドル小切手。でもこの雑誌は質が悪い。昔のパルプ雑誌。
285頁。
12,600語の「巡礼」をキャンベルへ。没だが、アイデアは悪くない。
286頁。
「巡礼」を何度も書き直すがキャンベルは採用しない。
アングロサクソン系の名前の作家の方がキャンベルには受け入れやすく、改名を求められた者もいたが、アイザック・アシモフは受け入れられた。
294頁。
カレッジ卒業にまつわる、いろいろな差別。
295頁。
化学の修士号をめざすことにした。しかたない。
297頁。
「アド・アストラ」は「趨勢」(Trends)という名で檜舞台アスタウンディング誌1939年7月号に掲載された。この号は1940年代SF黄金時代のはじまりとされている。他にヴォクトやハインラインなど。
299頁。
1939年7月2日。第一回世界SF大会。最後の頃、スピーチをさせられた。新進作家としては喜ぶべきだった。
304頁。
1939年9月1日、ヒトラーがポーランドに侵入。第二次世界大戦はじまる。
9月2日「アンモニウム」がサイエンス誌に売れた。
310頁。
やっと大学院に入った。勉学の場であり交際の場にはならない。ますます作家への道に傾いて行く。
312頁。
友人のフレッド・ポールが雑誌編集長となり、2編採用してくれた。1語0.5セン卜、計77.5ドル。これで息をつく。
315頁。
1939年末。教室で才媛アイリーンと出会う。21歳、少し年上。しばらく付き合う。
317頁。
1939年の売上は総額210ドル50セント。
322頁。
ポールが35ドルで「ロビイ」を貿ってくれた。
1940年4月12日、「地球種族」をキャンベルが採用。やっと2作目がキャンベルに売れた。アングロサクソン優位の物語だからか。
323頁。
物理化学の成績はA。他は平均B。物理学の単位は落とした。コロンビア大学院の正式な学生として認められた。なお、メディカルスクールへの入学は正式に断られた。内心喜ぶ。
*
キャンベルがアシモフの作品を断る理由として、ハインラインの作品と競合してその場合はインラインの作品の方が好みだったということがあった。ハインラインの1938年頃、も調べたい。
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『鬼滅の刃』のアニメを見始めた。なかなか面白い。
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