2021年1月29日金曜日

英語と日本語の達人藤本和子さんの文章がこころよい


『イリノイ遠景近景』を読み終えた。藤本和子さんのエッセイは、自分を語るときは春風駘蕩としているが、マイノリティの芸術家たちのインタビューのときは鋭い。どちらにしても文章の切れ味がスバラシイ。藤本和子さんの次の本として、昨日借りてきた『塩を食う女たち』(晶文社)を読むことにする。

昨日借りた加藤晴久『ブルデュー闘う知識人』(講談社)も少しだけ読んだが、いまのところ読みやすいし理解できる。難関と言われるブルデューを読み解く手がかりになりそうだ。

***

今日の「バッハ全曲を聴くプロジェクト」の実績。
Bach: Markus-Passion [Gönnenwein] Donath, Lisken, Jelden 
マルコ受難曲 BWV247

***

昨日の原稿を書き直した。一晩寝かせて、もう一度書き直すつもり。

須賀敦子『本に読まれて』(中公文庫)を「エッセイ的な形式」書評のお手本として勉強のため再読した。「エッセイ的」とはこの文庫本の解説を書かれた大竹昭子さんの評価だ。
https://allreviews.jp/reviewer/118

特徴的なところをあげてみよう。引用も含める。

「偏奇館の高み」、これは石川淳の、永井荷風を思わせる老人を描いた短編「明月珠」の書評である。少女時代に麻布に住んでいた須賀敦子が、実際に市兵衛町の荷風の旧居偏奇館跡を訪ねたときの描写から書評を始める。土地勘はあるはずだが、なにしろ半世紀は過ぎているので、何度も道を間違えながら歩く。手に持った地図も古い。


「地図の示す論理につぎつぎと背きながら、私は、早春のような薄日の射す坂道から坂道へと歩いた。」

……須賀敦子は結局なんとか目的地にたどり着いた。偏奇館あと、今は荒れ果てた集合住宅を見る。

「人影はなく、五月というのに鳥のさえずりさえ聞こえなかったのは、地区の死を無言で包みたいという死者たちの意志がどこかにじっと潜んでいたのか。」

……「明月珠」そのものの評価はこうだ。

「蔵書が灰になるのをまのあたりにして立ちつくす丘の上の老詩人を描ききって、どこかギリシア悲劇の主人公を彷彿させる作者(石川淳)の筆の冴えは、稀な感動をさそう、……」

時の流れを感じつつ書評の結末部を読む。

「数日後、年譜を繰っていて、あの夜、……荷風の年齢が、現在の自分のそれとおなじだったことに気づいたのは、怖ろしいような収穫だった。」 

晩年の須賀敦子の文章は完全に「書評」を超えていると思える。

もう一つ『「レ・ミゼラブル」百六景』の書評も読んでみた。

書評結末は、「これ(挿絵のなかでコゼットが見つめるニュールンベルグ製(と鹿島茂さんが鑑定して書いているところの高級人形)に似たフランス人形のエピソードは、たしか『小公女』にもあった。……こう書いてみると、一八四九年生まれの作者バーネットが一八六二年に出版された『レ・ミゼラブル』にヒントを得てこの人形の話を入れたのは確実と思える。」としてある。

ここも凡庸な書評とは言えない。そして著者の鹿島茂さんがバーネットの百年後、一九四九年生まれであることも須賀敦子の頭の中にはあるだろう。

https://allreviews.jp/review/2783

https://allreviews.jp/isbn/4001120275

書評の役割は、書評対象の書籍を買うべく書店に走らせることだという。須賀敦子の書評はその役割を十分以上に果たす。その上で、書評の読者を書籍の存在する仮想的時間空間を縦横に連れ回したうえで新たな世界に向かわせるという、壮大な役割も果たす。須賀敦子にならって自分の人生を懸命に生きながら、そのなかで本に向き合い、人生を豊かなものにしていきたい。もう一度いうが、これは「書評」を超越した書評の顔をしたエッセイであり、文学作品と言っていい。

***

「集合住宅」管理組合理事長の仕事の最後の追い込みと、町内自治会のチラシ印刷で忙しく、上記のことに割ける時間が少なかった。来週は別のオシゴトも入るので、執筆はなんとか日曜日で終了としたいものだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿