2021年2月19日金曜日

赤木曠児郎先生追悼(その2 『私のファッション屋時代』を再読して)

『私のファッション屋時代』(赤木曠児郎 1997年 近代文芸社)を再読した。

まえがきで、1988年から1992年まで、「服飾手帖」という機関誌に連載したとある。本文のはじめには「私達夫婦が、東京からパリにやって来て、今年の四月で、丁度満二十五年になる。」そして、「ファッション・ジャーナリストの兼業から身を引いて、本来の念願の画家としての仕事に専念する決心をした」とも書いておられる。一貫して画業への望みを持っておられたが、岡山大学理学部物理学科に入学したことでわかるように、広い視野でそしてご自分の興味のわくものに都度打ち込む姿は、参考になる。物理は「物」の「理屈」を習うのだから悪くないと入学したが、数式ばかり使う教養部の講義についていけず落第した、というあたりは、私の場合とそっくりで苦笑がおさえきれない。結局、なるべく数式を使わないことの実習や集中講義で単位を集めて何とか卒業されたようだ。ここも私と同じ。

違うのは、学生時代も絵が好きでファッション画をはじめいろいろ修業し、先生についているし、岡山大卒業後に芸大も受験しているというその徹底ぶりだ。芸大は幸か不幸かデッサンではねられた。

その後、洋服仕立てなども学ばれて、1963年29歳で私費留学。このあと、絵も書きながら「ファッション屋」で生活費を稼ぐ、だけでなく、パリのファッション界と日本のファッション界の架け橋として貴重な役割を果たされた。

これらは、回り道ではなく、パリという環境でアルティザンとして根をおろし、一人前以上になった上で画家を本業にするという、きわめてオーソドックスな道をたどったと言えるのだろう。

赤木曠児郎先生の絵は、観るものの心を揺さぶるのだが、これは先生の生き方のもたらす必然である。パリ生まれの人以上に、パリの風景を生き生きと写す手腕は、この50年におよぶ前半生がなくては得られなかった。そして、パリで根をおろせなかった私にも、普遍的で柔軟な生き方の象徴として、影響を深く与え続ける。

あと何年生きられるかわからないが、私も赤木曠児郎先生のように死ぬ直前まで自分の「興味」の対象を追いかけ続けたい。

「ファッション屋時代」の話が中心の本なのだが、画家修業の本としても読める貴重な人生を記録した本である。

『私のファッション屋時代』
右はその仏訳本(サインしていただいたもの)


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