2022年4月12日火曜日

『鷗外「奈良五十首」を読む』(中公文庫)もBOOKS HIROの日記本の仲間に入れても良い


平山城児さんの『鷗外「奈良五十首」を読む』(中公文庫)が昨日届いたので、今朝から読み始める。PASSAGE by ALL REVIEWSで一棚店主になって以来一ヶ月、書棚の経営とPASSAGE運営のお手伝いとで、好きな読書をゆっくり楽しむことができなかった。今回は少し余裕がでたような気がして、オモシロイ読書ができたような気がする。まだ読み終わってはいないが。

部屋の掃除も滞っていたので、片付けをし、設置したままのコタツの布団を畳んでしまい、「コタツテーブル」として使うことにした。これで午前の多くの時間を使ったが、気分が変わってシゴトも捗ることと思う。読み終わらなかった原因はここにある。

『鷗外「奈良五十首」を読む』だが、鷗外の晩年の短歌「奈良五十首」を、当時の日記「委蛇録」を手がかりに読み解く経緯を書いた本だ。男性の日記は、鷗外の晩年の日記は特に、記述がそっけない。その行間に多くのニュアンスが隠れているはずだが、日記の文面だけを追っていると想像がおよばない。砂を噛むような気持ちで日記を読む羽目になり、途中で投げ出したくなる。

一方、短歌を読む時に感じるのは、その短歌がどのようなシチュエーションで書かれたのかがわからないと、短歌の意味を取り違えそうで気持ちが悪い。読者が自由に捉えるのが正しいのだろうが、取り付く島もないとつらい。

そこで、短歌と同時期に書かれた日記を照らし合わせるという手法を、平山城児さんはこの本でとっている。うまい方法だとまず感心した。難しいのは短歌の出来る源泉の鷗外の奈良体験が複数年に渡るということで、鷗外はきっと手帳に書いた短歌の原稿を毎年の奈良行のたびに、書き換えていたのではないかということだ。複合された時間差のある感興。

ともかく、この本を読むと短歌が「わかる」と同時に、「委蛇録」の無味乾燥な灰色の記述に、徐々に色彩が蘇ってくる。正倉院の宝物の絵画に広いスペクトルの光をあてると、往時の鮮やかな色彩が蘇るのと似ているようだ。

私の書棚「BOOKS HIRO」の日記本に、鷗外の日記と一緒にこの本も入れて売るのも良さそうだ。

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今日のツイート2つ。




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