長谷川郁夫さんの『編集者 漱石』(新潮社)を読み続ける。120ページまでやってきた。漱石は明治35年12月5日に「短い」留学期間を終え、ロンドン・アルバート埠頭から日本郵船の博多丸で日本へ帰ることになった。留学中に小さな文字で(ノートが嵩張るのを恐れたのだろう)書き溜めたノートは6寸の高さだったという。これが留学の成果で形になったもの。しかし、長谷川郁夫さんは吉田健一より優しくて、英国の街や山野を歩き回った漱石はそこここに充満する思想の粒子を全身で吸収したはずだと書いておられる。私もそう信じる。
この本は『編集者 漱石』という表題だが、この120ページまでで、「編集者」であったのは、早熟であらなければならなかった正岡子規だった。五高教授にまでなっていながら、まだ人生の方向性が定まらない漱石にくらべ、漱石の莫逆の友子規は大学を卒業せずに、社会の荒波の中で文学一筋に生きた。かならずしも本意ではない「ホトトギス」の編集者の役割も立派に務めた。その奮闘が病気を助長させたのは間違いない。しかし、その病気すら文学の材料とするプロ意識を子規は持っていたと言える。
子規の死のしらせをロンドンで受け取った漱石は、親友の死を嘆いたが、これを機会にみずからも一生をかけて文学をやるという決心を一層固めたのではないだろうか。その後の漱石の行く道、そのなかで「編集」というシゴトがどのように顕現するのかは、これからのこの本を読む楽しみである。
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以下は、読んでいて気づいたことがら。
子規は「写生文」という大発明を明治の文学界にもたらした。
106ページの、「明治33年10月5日記事」の抜粋の抜粋。
「何の山何の川に遊びて眺望絶佳愉快極らず抔(など)と書ける類も少からねどこれも読者には何等の愉快をも与へず候。其山其川の景色が読者の眼前に彷彿たる迄に叙しあらば善けれども、……」
これはみごとな「写生文」の説明になっている。
もうひとつ。
「又文章の時間(テンス)は過去に書く人多けれど日記にては現在に書くも善きかと存候。貰つた、往つた、来た、立つた、と、『た』ばかり続く代りに、貰ふ、往く、来た、立つ、とすれば語尾も変り且つ簡単に相成申候。」
こんなことを、子規は枕頭で開かれていた「山会」で言って後輩を指導していたという。あっぱれな編集者であったと私も思う。そして、長生きしてほしかったとも思う。
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ところで、子規の「獺祭書屋日記」をBOOKS HIROに入れたくなってきた。
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