2016年12月23日金曜日

ビデオと小説のイメージ喚起力と現実変革力

 『高い城の男』を、忘年会に向かう電車の片隅で読む。フィリップ・K・ディックの筆力に引き込まれて、降りるべき駅に停車するまで気づかず慌てておりた。コンコースを歩きながら折りたたみ傘を座席に忘れてきたことに気づく。それくらい面白いということか。

 まだ邦訳を三分の一しか読んでいないが、昨日までに観たビデオ版から受ける印象とはあきらかに異質なものを感じる。小説で読むとビデオ映像から受けるやりきれない暗さが感じられない。

 リドリー・スコットは原作を読んで、自分なりの世界観に照らし合わせ、映像作品を作った。ほぼ彼の創作と言っていいだろう。そして彼の狙った効果は十分に発揮される。我々は混乱し、困惑し、世界の不条理さをたっぷりと味わう。この点でリドリー・スコットの思い通りである。映像のプロの技はすごい。しかしそこに、「やられた」感がある。

 小説から受ける印象は、乾いた、皮肉な、そして時にはユーモアすら感じられるものである。そして、フィリップ・K・ディックは知的な困惑を読者に起こさせ、読者自身が考えて、この世界の不条理性を把握することを促す。イメージを作るのは読者自身である。

 ビデオにせよ小説にせよ、「正しくない世界」を「より正しい世界」へと変革することを、受け手(視聴者・読者)に促す。

 どちらのメディアの受け手のほうが、社会を良い方に導くように動きやすいか? この種のことを考えるには、この『高い城の男』は良い題材である。これを提出したディックに拍手を贈りたい。



 今日こそクリスマス・ツリーの飾り付けをしないと。

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