社内の書類は殆どが手書きの時代があった。30年以上前はそれが普通だった。コピーを作りたい場合は薄紙になるべく濃く書いて(このほうがコントラストが良いくっきりした仕上がりになる)、自分で青焼きをした。青焼きの機械は各フロアにあったが、ゼロックスコピー機は高価なので、社内に一つしか無い。プロスペクトへの営業活動にしか使えなかった。
部内の人々の筆跡は、したがって、皆覚えた。署名がないとしても、見慣れた筆跡で誰が書いたか解る。手書き書類を使わなくなった今になっても、身近な人の筆跡はすぐわかるが、若い人にはこの能力が失われたらしい。たまに、筆跡で書いた人を当てると、驚かれることがあった。
今でも、手書きで署名することは多い。そして、ホワイトボードを使って議論するときには、手書きをしなければならない。字が下手なのは仕方ないが、読みにくいのは困る。そして自分で書くとき漢字を忘れがちなのもこまる。練習が必要だ。
それはさておき、当時は手書きの文字をみれば誰がどういう気持ちで書いたかわかるような気がした。元気で明るい気分のときには字は大きく、筆圧も強い。元気が無いときには縮こまった、薄い字を書きがちだ。
最近、空海にはまって参考書や伝記や小説を読んでみた。そして、空海の精神生活に文字が重要な役割を果たしていたことを知った。そして、空海の筆跡の写真も多少眼にした。
空海の字は奔放である。彼の勁さを如実に表している。しかし、何度も見ていると、勁さの中に彼の浪漫性もあらわれているような気がしてきた。自然と関係深い字を書くときなどにその一端があらわれる。
空海の「月」という字を、真似して描いてみた。筆と墨で書けばいいのだが面倒なので、iPad上のアプリ(Zen Brush2)でやってみた。
三日月が夜空に低くかかり、その三日月が水面に映っているような気配の字だと感じた。あとで、他の書家(たとえば欧陽詢)の「月」の字も見たら、似たような、でも少しニュアンスの違う三日月が感じ取れた。雲をつかむような話では有るが、隠居老人の消閑にはふさわしい話でも有る。
漢字の成立には自然がおおきく関わる、これは白川静先生に教わったが、すでに成立した漢字でもそれを書くときの書家の環境や気分によって、字体がおおきく変わるだろう。手書き文字にはデジタルな表現の文字が持ちたくても持てない大量の情報が隠されているかもしれない。
AIを駆使すれば単なる文面に含まれるよりも、もっと大量の情報がわかるかもしれない。デジタルと高精細なアナログ画像情報の共存をはかることが必要な理由がここにある。
モナリザの画面には、ジョコンダ夫人を微笑ませるために画家が楽師をやとって演奏させた音楽の一節が、痕跡として残っているというSF作家の説を読んだことがある。絵の具が乾きかけるそのときのメロディーの音波が固定されている。ピックアップを使って、モナリザの絵の表面をなぞっていけば再生できると。画面を傷めないようなレーザー光を用いれば可能かもしれない。
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