昨日図書館で借りだした「転回点ーマン家の人々」(クラウス・マン 小栗・渋谷・青柳訳 1986年 晶文社)を4割がた読んだ。
文豪の息子の七光(ななひかり)本と思っていたが、どうしてなかなか読ませる。トーマス・マンは前半ではあまり描写されていない。まだミュンヘンに住んでおり、朝九時から12時まできちんと仕事をしている。「主人と犬」を書き「魔の山」を構想中だったらしい。
文豪は子供たちからは「魔術師」と呼ばれていた。子供は主として奥様が育て、父親は気の向いたときに声をかける。関心がなかったわけでないが、うるさく口出しする父親ではなかった。仕事=文学のほうが大事だったのだろう。
クラウス・マンは姉のエーリカとともに、6人兄弟のうちでの芸術派だった。詩を書いたり、舞台に立ったり、小説を書いたりし、早くから(20そこそこで)世に知られた。ロンドンやパリやモロッコやイタリアなども遍歴。ついには姉と一緒に米国に出かける。興味を示した米国の出版社や講演エージェントの軽い招きに応じ、英語もろくに話せないのに講演旅行の報酬をあてにして、飛び出してしまう。
案の定最初は仕事がなくて困るが、なんとか支援者を見つけて米国内を歩き回り、講演も無理やり成功させる。やはり支援者から少しまとまった金をせしめ、ハワイ経由で「軍国日本」にも来ている。東京(帝国ホテルに泊まっているが評価は低い)は汚いと思ったらしいが、京都少し気に入ったらしい。
このあと、アジアを回るらしいが、ここからは明日のお楽しみに取っておいた(^^)
分厚い本(600ページ)だが、すらすら読める。ここは親爺の本とはちがう。悪くいうと軽い。
旅行(日)記つながりで、「独逸日記」(森鴎外)もパラパラやってみた。
明治17年10月から一年間はライプチヒ
明治18年10月からはドレスデン
明治19年3月からはミュンヘン
明治20年4月からはベルリン、にそれぞれ滞在し、
明治21年3月には日本への帰途につく。
ミュンヘン時代が一番楽しかったようだ。仕事(研究・軍務)の関連も有るが、土地柄もありそうだ。
ところで、先程のクラウス・マンによると、一次大戦後のある時期、ミュンヘンには共産党政権が存在していたらしい。当時のトーマス・マンは政治に関心が薄かったらしく、直接の関わりはなかったという。もちろん息子も。彼らが政治に関わるのは、1933年の亡命後。
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