2017年10月10日火曜日

モンテーニュの訳者原二郎先生のかすかな思い出

 一浪して東北大学に入った。理学部に入ったが、もともとは文学への思いもあった。幸い、当時は(今でも?)2年間は教養部としていろいろな講義を受けることができた。

 外国語を2種とらなければならない。多くの級友は英語とドイツ語/フランス語をとった。私はあえて、フランス語とロシア語にした。見栄だったかもしれない。ともかく、森有正先生のようにパリで暮らすことを夢見たのだ。

 教養部で私がフランス語を習ったのが、原二郎先生だった。無学な私は原先生がモンテーニュを訳されていたのを知らなかった。

 もっともそのほうが良かったのかもしれない。先生は一見しては、田舎のオヤジさんといった顔をされていた。ご出身も宮城県で、多少コトバに訛りがあった。私も東北出身だったので親しみを感じたのかもしれない。

 最初の発音の練習の時、教科書にはカナをふりなさいと言われた。英語とはちがうのでカナのように発音すれば良いと。

 「発音は、東北訛りにするのがいいです。その方が通じます。」とおっしゃるので、おおいに勇気が出た。これは、東北出身でおとなしい者が多い学生を励ますための方便だったのだろう。

 春学期で文法の教科書をやり、秋学期で「フランス風物読本」を並行して読み、2年の時には「タイース」(アナトール・フランス)を読んだ記憶がある。



 どの試験か忘れたが、多分2年の試験で、私用(実は兄の結婚)で受験しなかったことがある。それまで、点数は悪くなかったのでたぶん頼めば、再試験を受けさせてくれるだろうとの気持ちがあった。確信犯だ。

 試験の翌週に恐る恐る教授室を訪ね、事情を話して、再試験を申し出た。

 先生は、最初恐い顔をされたが、しばらくして、「わかりました」とおっしゃり、部屋の片隅に私を座らせ、試験問題を手渡して下さった。中身は忘れたがそれほど難しくはなかった。

 後日、全体の試験結果を事務室に取りに行ったが、フランス語は合格していた。そのかわり他の科目で落第し、教養部脱出はならず、学部への進学はもう一年お預けとなってしまった。

***

 はじめてパリに行ったのは、定年後だった。観光を終えて帰国する前にギャラリー・ラファイエットの書籍売り場で、モンテーニュの「Les Essais」を買った。1800ページ以上有る分厚い本だ。



 原先生の訳本は何種か買って読んだが、まだ原文で読んでない。時々先生の顔を思い出しては、「Les Essais」をめくってみる。いつもそろそろ読んでみようかと想う。

***

 「溶ける街透ける路」(多和田葉子さん 2007年日本経済新聞出版)に、モンテーニュの城館を訪ねる話が書いてある。
 
 こんどこそ読みます! え? 「無理するなよ」。はい。

2 件のコメント:

  1. 一時期、原先生のちょうどお向かいに住んでいました。原先生のお話は懐かしい限りです。川内住宅の郵便局のそばで、ぼくの父親が役人だったので、川内住宅に住んでいたのですが、ある時、先生のお宅に泥棒がはっいたかと記憶しています。この川内住宅は今でもあるのだそうで、3月まで東北大で教えていた高校時代の友人が、この川内住宅に住んでいます。先生は、僕から見たら、田舎っぽい感じは全くせず、背も高くて、たいそう格好の良い人でした。奥さんは小柄でした。僕も、文学に憧れがあったのですが、ある日、先生は、うちに見えられて、文学は趣味にしておいたほうがいい、と言われました。それが原因というわけではないのですが、全然違う道に入って65歳になりました。

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  2. コメントありがとうございます。
    原二郎先生のことは、その後も少しずつ調べています。
    このブログの右側の検索窓に「原二郎」と入れて、表示されるブログ記事を読んでいただければ幸せです。

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