『共同幻想論』対談ビデオの書き起こし。ほぼ最後まで来た。残りは質疑応答。と昨日も書いたのだが、もう一日くらいかかりそうだ。最後、マイクの調子が悪くて、話が聞き取りづらく、書き起こしに苦労した。ボリュームをあげてなんとか凌ぐ。
これに関して、内容理解のための参考書として、鈴木三重吉の『古事記物語』(青空文庫)を読んだ。参考になるほど理解したとは言えないが、読み物として非常に面白い。昔観た娯楽映画も思い出す。
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午後は、中村真一郎の『全ての人は過ぎて行く』(新潮社)を読む。前半の「私の履歴書」の部分を読み終えた。
25頁。開成中学に入る。中村真一郎はここで非常な知的刺激を受けた。当時の開成中は、(今の開成を知っているわけではないが、)非常に優秀な教師たちのもとで、先進的な教育をやっていたようだ。生徒の自主性にを伸ばしながら、教師は専門的な研究をしながら、その一端を生徒に講義する。秀才加藤周一は後に府立一中の教育は「空虚」だったと中村真一郎に言って煙に巻く。
53頁。中村真一郎が大学を出て自活の道を探していた時に、阿佐ヶ谷の堀辰雄邸に住んでいたと書いてある。これは知らなかった。そこまで親しかったとは。堀辰雄が中村真一郎の才能を認め、育てようとしていたからだろうか。
94頁。堀辰雄との関係は大学生時代に遡る。本(マンスフィールド)の貸し借りで知り合い、本についての話で急速に親しくなる。堀辰雄は英独仏のの新文学の動向にくわしく、中村真一郎の読書指南役をつとめたという。羨ましいことだ。堀辰雄はもちろん、芥川龍之介に私淑していたが、芥川は師の漱石よりも森鷗外に散文の手本を求めていたので、中村真一郎は鷗外スクールに連なることになるとしてある。
102頁。軽井沢に亡命。これは比喩でなく、室生犀星などは本気で考えていたらしい。日高パーティーという楽しいこともあった。
112頁。芥川は香港から亡命してしまえば、死ななくて済んだのではないかという説。
戦後の話はこの文章にはあまり書かれていない。さしさわりがあったからだろう。中村真一郎の研ぎ澄まされた才能が良い環境で活かされず、生活のために苦労したのが惜しまれる。
そのなかで、中村真一郎の病気からの回復手段として使った「漢詩」の読書に興味を持った。なぜ漢詩だったのか。そこで、『江戸漢詩』(岩波書店)の中古本を注文してしまった。届くまで、中村真一郎が一時憧れたという、吉川幸次郎の『漱石詩注』(岩波新書)を読んで予習しておこう。
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コロナ禍や 真っ只中に 梅雨明ける。
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