『頼山陽とその時代』、中断しようかと思ったが、もう少し読んでみよう。
201頁。
新宮涼庭(1787〜1854)、蘭医。『西遊日記』。1832年山陽が喀血で倒れた時診察した。旧知。
209頁。
村瀬栲亭(1746〜1820)。京都学会のボス。古注学者で詩人。人気の出そうな山陽を講師として雇おうとするが断られる。その後対立。村瀬栲亭は博識にまかせディレッタント的な書物も出していた。これも山陽に嫌われた。
219頁。
中島棕隠(1780〜1856)。流行作家、通人。村瀬栲亭の弟子。都会人の中島棕隠と田舎出の山陽はやはりあわない。
このあと、友達の友達など、たくさん。
246頁からは、西遊中の知人たち、つまり春水の三回忌(1818)の後、九州旅行した山陽の知人がたくさん。
やはり、531頁からの「山陽の学藝」(この本の総まとめ)にワープすることにする。明日。
***
気分を変えるために、『木村蒹葭堂のサロン』のなかの、頼山陽の記述を索引を使って拾い読みする。
29頁。
江戸後期の知識人「共和国」の典型的三人を中村真一郎は描きたかった。
(1)山陽 ジャーナリスト、詩人、批評家。認識の人。ホモ・サピエンス。
(2)蠣崎波響 政治と芸術の狭間にいた。ホモ・ファーベル。
(3)蒹葭堂 社交人。ホモ・ルーデンス。
195頁。
母親の影響が良くも悪くも強すぎた。母親はメリー・ウィドウ。弟子は顰蹙。
***
もうひとり、マザーコンプレックスの方が現在の日本にいらしたが、ご病気で現在の要職を投げ出すことになった。2回目なので、呆れられている。病気なのであまり悪口は言いたくないが、在位中に、戦後庶民が苦労して築きあげた社会の民主的な部分をすべてダメにしてくれた。この回復には相当な時間と我々の努力が必要になるだろう。
また読み返そう! |
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