中村真一郎の『全ての人は過ぎて行く』(新潮社)を読了。
「文学の衰退」という文章が161頁から載っていた。1997年から98年にかけて「新潮45」に掲載された随筆のうつのひとつ。文学者の社会的地位が半世紀前の志賀直哉などに比べて低下しているという話。社会への影響力、たとえば言葉の表記法はいうに及ばず、端的には原稿料が下がっているのだという。志賀直哉の原稿料は97年当時に換算すると400字詰め一枚あたり30万だったが、今は1万円、劇的に低下している。出版社が倒産してしまうからだという。
私は終戦直後の日本の出版界は、「バブル期」ではなかったかと思う。
中村真一郎によると、プルーストは株で儲けていたし、その他のフランス作家も銀行利子や株でもうける、要するにブルジョワ子弟だったと。日本はそれに比べて「筆一本」の生活を送った作家が多いのだと。永井荷風や正宗白鳥は例外だそうな。教師をやっておられる作家の方も多いのだと。
214頁。50歳台半ばの、病気の後、療養も兼ねて軽井沢の別荘地に落ち着く。交友も楽しむが、平岡昇は連日フランス哲学の講義付きで、ケーキを持って訪ねてくれた。おかげで、ゆっくりと「脳の若返り」を楽しめたとある。ここだけを読むと非常に羨ましい。
やはり中村真一郎の『江戸漢詩』(岩波書店)を読み始めた。漢文学がいまの日本文学史では無視されているという。昔から漢文学が公式の文学であり、たとえば奈良朝では『懐風藻』や『日本書紀』がそうであり、『万葉集』や『古事記』は地方文学だそうである。同様に平安期を代表する文学者は空海であり道真であり、清少納言や紫式部ではない。
江戸後期の漢詩人たちに比べると、明治の詩の建設者たとえば島崎藤村は、はなはだしくプラトニックかつ健全。悪く言うと遅れている。
「歴史が一直線に進歩するという信念は、十九世紀の迷信に過ぎない。」という名言が14頁に、(まえがきに、)ある。面白い。
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