2021年2月24日水曜日

読者に深い影響を与える種類の書評にはエピソードが必要だろう

安野光雅『語前語後』(朝日新聞出版)を読み始める。著者は昨年末に亡くなったばかりだった。最近は訃報に接するとお幾つだったかを調べ、その歳に自分も寿命を迎えるとしたら、後何年生きられる勘定になるのかを必ず計算してみるのが癖になった。安野光雅さんは1923年生まれ、94歳没なので、計算結果はあと23年となる。20年以上あると少し安心し、10年以下だと不安になる。まだまだ修行が足りない。情けないけどこの癖が治らない。

著者自装のこの本には、雑誌に連載された数行から数十行くらいの短文のエッセイが多数含まれる。『エセー』に似ているが、内容は軽いものが多い。すらすら読める。ブログのようでもある。日記のようではない。軽やかな書き方が参考になるだろうという下世話な理由で借りた本である。

読んでいて楽しいが、本を閉じると内容をあまり覚えていない。数行の短い文章だと、内容を読者に刷り込むお話(エピソード)が書き込めないからだろう。事実や意見の羅列だけになってしまうからだ。これはこの本の価値を貶める話ではない。この本の目的、読んでいる間だけ読者を楽しませること、とは違うからだ。

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夕方、図書館に行き、更に6冊本を借りる。どれも予約していたもので、ALL REVIEWSやデジタル・ケイブでその存在を教えてもらったものばかりである。歳を加えてくると、新しいものに関心が持てなくなってきている。新聞や雑誌の書評記事などをなるべく読むようにしているが、知人や尊敬できる評論家からの口コミで紹介してもらった本は、気にいるつまり最後まで読む確率が高い。そしてその紹介にも「エピソード」が必要と思われる。若い人に講義をする時、実感していたと同じことだ、時には人工的に(講義中のゲームなどで)作ったエピソードを使う場合もあった。

これは「書評」にも通用する話と思える。

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