かなり疲れて夕方7時に帰宅。帰りの電車(混雑を恐れて緩行電車にあいた)では、『読書とは何か』の後半を読みながらも、意識が上滑りするような感覚がして、没入できない。忙しさは、私を読書の喜びから遠ざける。
そこで、昨日読んだ部分の一箇所を引用して「感想」を述べるだけにしたい。
168頁。(3.2【精読】読書ノートをつくりこむ の一節)
著者が思い描く理論の全体像を理解するためには読者のひとりである私自身もまた”追体験”しなければならないということだった。そして、究極の読書とは、読者自身がもうひとりの著者になることかもしれない。
これを裏返すと、「畢生の大作」を読んで「すべて理解」するということは事実上不可能な技であり、素人読者である私などにはほとんど不可能なことになる。もちろんここで無力感に囚われては駄目なので、数%でも「理解」できることを僥倖としてよろこばなければならない。「大作」の一端でも自分で理解できることは素晴らしいことと喜び、それを少しでも増やす努力をするのが私のできることだ。
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夜、60年ぐらいの間ずっと親友だった名古屋のS君から電話があった。数年間あっていないが、コロナ禍が去ったら、またあってよもやま話をしたいものだ。
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