なんだか、最近サリンジャー界隈がにぎやかになってきた気がするのは気のせいか。軽いところから行くと、まず、「サリンジャーと過ごした日々」(ジョアンナ・ラコフ 井上里訳 2015年 柏書房)が映画化された。シガニー・ウィーヴァーが助演している。😍
『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』(原題:My Salinger Year)*
『サリンジャー ――生涯91年の真実』も先に映画化されていた。知らなかった。
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AmazonPrimeで観られる映画。追加料金無しで観られるのは4月23日まで!
なので、今日、急遽観た。まずまずの出来か。原作よりも「エージェント」の役割が強調されているような気がする。そして、戦争によるPTSDが当時こんなにも認識されていなかったことに驚く。サリンジャーは独力でそれに立ち向かい、克服とまではいかないが、共存する道を選んだ。それが出版を前提としない自由な自分だけのための執筆活動だったのだ、というのがこの映画の、サリンジャーの後半生の「沈黙」への解釈なのだろう。ほぼ同意。
誰か、庄司薫氏に関してもこういった(なぜ4部作以降作品をほとんど発表していないのかについて)論考を書いていないだろうか。調べたい。
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『忘れられた巨人』の読後感。
雌竜の吐き出す霧が「世界」を覆い、そのせいで主人公夫妻を始めとして皆の「記憶」を奪っている。この設定はうまい。当然、悪の根源である雌竜を退治しようと言うストーリーになる。それで話が進むが、進むにつれてわれわれの解釈も曖昧になっていく。雌竜は悪者なのか。「記憶」を失うことは悲劇で、取り戻すとハッピーエンドになるのか。「記憶」をとりもどすことが、たとえば夫妻にとっては耐えきれないことを思いだし、仲違いの原因になるのではないのか。そのために、最後には西の島(アイルランド?)に、別れ別れに連れて行かれるのは救いなのか新たな悲劇なのか。騎士や老夫婦そして馬に至るまで、彼らの霧の中の遍歴そのものをカズオ・イシグロは書きたかった。この遍歴は英国や日本にかぎらず世界中で通用する、普遍的な思想と物語の源泉であり、そのため2015年にこの小説が発表された直後の2017年のノーベル文学賞を、著者は得ることになった。
豊崎社長の付箋や書き込みは、「曖昧」な物語を読んでいく上での良い道標となった。登場人物やストーリーの転機などが、わかりやすかった。今後小説を読む時の参考になる。明日はこれらと豊崎社長の書評(ALL REVIEWS掲載)との関連を考えてみたい。
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今日のツイートなどを見ていると、PASSAGE by ALL REVIEWSへの新規棚主さんの登録が順調に進んでいるようだ、冗談で言っていた「棚がすべて埋まる」状態が近々実現するのかも知れない。スゴイことだ。
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これ、申し込んだが、本当に行けるかな。調整しないと。
『特別展「鹿島茂コレクション2 『稀書探訪』の旅」関連講座 天使はほほえみ、悪魔はささやく/終わりのない古書探しの旅 Ⅱ』
https://www.library.chiyoda.tokyo.jp/information/20220703-post_472/
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