『トーマス・マン日記』をなおも読む。
1952年7月1日、チューリヒ、ボル・オ・ラク
(承前)ゴーロ達と、エーリカについて、私たちの将来計画についていろいろと話し合う。テシーンかそれともチューリヒ近郊にするか?
7月3日、チューリヒ。
宿は見つからない、なにしろ、(体調のせいで)トイレット付きの部屋に固執せざるを得ないからだ。
7月4日、金曜日。。
カトヤが山間保養地各所と電話。いずれも断られる。結局、ホテル・レギーナ・ヴァルトラントに火曜日を予約する。
7月5日。
車でノイマン邸へ。
7月6日。
落ちつかぬ夜。じくじくする耳。アルコール洗浄。セコナールのあとイプラール。それから数時間快眠。
カフカの『ミレナヘの手紙』を読む。(捨て鉢な恋文)
7月8日、火曜日。
車でエーリカの保養所へ、エーリカとともにカンダーシュテークヘ。
(#ここでタッチペン破損、買い直さないと!、とりあえず中指で。)
7月9日、カンダーシュテーク。
上等の浴室付きの簡素な部屋。(#これは皮肉らしい)
7月11日、カンダーシュテーク。
きのうは病気の一日。腸カタル。ホテルの部屋が小さすぎる。
7月13日。
シカゴの党大会、アイゼンハウアーを指名。これで悪質なカリフォルニア出身の副大統領(ニクソン)が誕生することになろう。
7月15日。
パシフィク・パリセーズの甥から純真な手紙。レコード・コレクションを整理してくれた。
7月16日、ホテル・ヴィクトーリア。
きのうこのホテルに移った。オーストリア的。部屋を読み書きできるようにどうにか整える。
7月19日。
このところ午前中短編小説に少し苦労して取り組む。
7月20日。
Kとエーリカに短編小説の書き上げた30枚以上をほとんどすべて朗読した。エーリカは誉めたが、生理学的なものは抑えるよう助言。高地では朗読は大変。
7月21日。
原稿に手を入れる。
エーリカは病気。
7月22日。
あまり食欲がない。
書き進める。
エーリカ回復。
7月24日。
Kの69歳の誕生日。人生の来し方について語り合った。
数行しか書き進まなかった。難しい地点。
8月1日、ルガーノ、ヴィラ・カスタニョーラ。
1933年以来のこの記録(日記)はそう必要でなかったという感じ。
きのうミンクスでエーリカと、ルツェルンヘ走行。我々のみ列車でこちらへ5時到着。3階の窮屈なバス付きの小綺麗な二人部屋。朝食後少し原稿と取り組む。10時にバルベンゴの家の持主の車で家を見に行く。
8月2日、ルガーノ。
Kがアニョの物件は問題にならないとの結論を得て戻る。バルベンゴの可能性。しかしまだチューリヒ近辺を見て回る必要がある。
8月4日、チューリヒ、ヴァルトハウス・ドルダー。
放送局で、『社会の中の芸術家』の収録。400フランの中間報酬。
8月8日、ミュンヒェン、フィーア・ヤーレスツァイテン。
きのうヴァルトハウスを出発、長い走行。ミュンヒェンに入る。食堂の移築の他はホテルは変わらぬ姿。朝食後、講演に目を通す。南ドイツ放送の出迎えを受け、局で集中して講演を朗読。
8月9日。
ザルツブルグへ。
8月10日、ザルツブルグ、マリーア・テレージア=シュレーセル。
きのうここに4時に到着。さしあたり浴室なし。モーツァルトの夕べに、ビービが登場。
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『精選女性随筆集5 武田百合子』で「富士日記」の抜粋を読む。川上弘美さんが「まえがき」(?)で書いているように、文章も内容もいい。楽しい部分も哀しい部分もいい。こんな生き生きした日記は初めてだ。抜粋でなく、全文を読んでみたくなった。
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上記のメモを手書き変換ソフトで書いていたら、ディスクタイプのタッチペンのディスクがとれてしまった。夕方の買物ついでに100円ショップで買い直した。書き心地は良いのだがディスク部分は良くこわれる。