2010年6月20日日曜日

Leavitt小伝

とりあえず、インターネットで調べたことを私なりに文章にしてみました。これをベースにまた調べて、彼女の業績の意味や他の周辺トピックスも調べて書きます。最終的には「なぜ彼女は天文学を志し、どう生活を楽しんだか」が解明できれば幸いです。

 Henrietta Swan Leavittは1868年7月4日、米国マサチューセッツ州ランカスターという小都会の牧師の娘として生まれた。幼くして家族とオハイオ州クリーブランドに移住し、オベロン・カレッジそしてラドクリフ大学(現ハーバード大学)の前身校を1892年に卒業した。これを見ると両親は当時としては珍しく娘の教育に熱心であったようだ。
 卒業前から天文学に興味を持ち、天文学の講義を受け、その成績はA-だったという。卒業後も天文の勉強を続けたがそのころ病を得、聴覚に障碍を持つようになっている。
 卒業後数年して、ハーバード大学天文台で有名な「人間コンピュータ」役の女性の一員として無給で働くようになった。望遠鏡を用いて写真乾板上に撮影された星々の光度測定とそのデータ整理が主な仕事であったのだろう。彼女はこの仕事でたちまち頭角を表した。
にもかかわらず天文台長ピッカリングは1902年になって初めて時給30セント(!)の常勤職員に任命している。) 彼女にとっては天文に関する仕事をすることが金銭にかえられない至上の喜びだったのだと思う。
 写真乾板上の星像から星の光度を算定する基準システムを作り上げたがこれは後に(1913年)国際標準として採用されている。
 1908年、小マゼラン星雲の中のCephide変光星たちの光度変化を調べ、光度変化の周期と絶対光度に相関関係があることを発見した。星の周期から絶対光度がわかれば、観測される見かけの光度と比較することでその星までの距離を見積もることができる。これは大変重要な発見で、アインシュタインの一般相対性理論による宇宙方程式の理論的解釈や観測的宇宙論(たとえば宇宙の大きさやその大きさの変化など)の論争のなかで科学者たちが追求し議論していることのおおもとを左右することになる。
 その後も彼女は仕事を続け、女性天文学者の団体で地位向上などの推進もしたが、1921年12月(12日または21日)、胃ガンで亡くなる。病気ではありながら明るい性格で同僚にも人気があったとされている。
 1924年にはノーベル賞の候補にもあげられたがすでに死去していたことがわかり沙汰やみとなったとのこと。

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