1938年の米国事情を知ろうと、『アシモフ自伝 1上』(早川書房)を読み直す。1920年生まれのアシモフは、1938年にはコロンビア大学に属するカレッジに在学し、SFを書き始めたところだ。そこにいたる道筋も読んでみた。ロシアからのユダヤ系移民の暮らしがわかる。
93頁。
ロシアからの亡命後の父も、アシモフも信仰からは「自由」。
98頁。
キャンディーストアで粗悪なペーパーバックを読みたがる小学生のアシモフに、図書館の貸出券を与える父。本を買うことは(貧しくて)できなかった!
102頁。
一度わかったことは、二度と忘れ(られ)ない。一種の病気だろう。
103頁。
飛び級で小学三年生になるまで、ニューヨークが世界と思っていた。教室で笑われたので、地理の教科書を一晩で読み、すべて頭に入れた。
109頁。
1928年。父親が市民権をとる。8歳のアシモフも成年時に市民権をとる有資格者となった。
110頁。
イディッシュ語をもとにヘブライ語を読めるようになった。父の影響。
114頁。
引っ越し。その際前の住民のタイプライターを垣間見る。
118頁。
キャンディーストアで週7日、日に10時間働く。この働く習慣は死ぬまで続く。
119頁。
図書館で本を借りてひたすら読む。イリアス、オデュッセイア、デュマ、ディケンズ、オールコット、ネズビット、パイル、マクドナルド、シュー。借りられる二冊のうち一冊は小説で、一冊はノンフィクションでなければならない!アガサ・クリスティー、ウッドハウス。
120頁。
キャンディーストアのパルプ雑誌も読む。
そしてSF雑誌。アメージング・ストーリーズ。創刊1926年4月号。
121頁。
ドリトル先生を読むことを教えてくれたマーティン先生。
132頁。
新聞を読みはじめる。大統領選でニューヨーカーでないフーヴァーが当選。世界大恐慌。1929年おわる。
136頁。
飛び級で「高校生」あつかいになる。図書館で借りることができるのは相変わらず二冊だけ。
141頁。
読みたい物語は自分で5セントのノートに「創作」することにした。1931年秋。
143頁。
1932年版の『ワールド年鑑』を父親にプレゼントしてもらう。さまざまな統計から多数のグラフを描いてみた。
149頁。
男子校高校生になる。標準は15歳だがアシモフは13歳。
当時のユダヤ人社会では、子供を医者にすることが夢。
151頁。
ローズヴェルト大統領になる。学校新聞の仕事をしたかったが手伝いのため時間がない。
計算は得意だったが数学そのものの才能はないとわかった。
178頁。
高校卒業。
1935年4月10日。マンハッタンにあったエリート校コロンビア・カレッジの面接で不合格。同じコロンビア大学の中のセス・ロウ・ジュニアカレッジ(ブルックリン)に合格。こちらの方がユダヤ人が多い。
184頁。
父がアンダーウッド五号(中古タイプライター、10ドル)を買ってくれた。
188頁。
(1936年。)SFを書きはじめた。文体無視で書きなぐる。
193頁。
学費がなかったが奨学金100ドルと月15ドルのアルバイトを学校から紹介される。最年少の学生になる。
197頁。
外国語、単語を覚えるのはいいが文法不得意。
201ページ。
1936年9月、大学2年目。ブルックリン外の(モー二ング・ハイツ)校舎に通う。歩いて一時間。
202頁。
化学の講義を聞き、気に入る。先に教科書を読んだことがあったの原因。一方、解剖が不得意で医学部への進学に疑問を持った。
208頁。
キャンディーストアの周囲の住民はアイルランド系が多い。保守的。反ユダヤ感情。売っていた新聞には、カトリック系が多い。そしてタブレット紙。これらは反ローズヴェルト、反ユダヤ。反共産主義。ヒトラーには無関心。
209頁。
周囲はドジャーズファンたがアシモフは以前同様ジャイアンツファン。
219頁。
19世紀文学ファンで、ヘミングウェイなど20世紀文学は(今でも)読まない。サバティーニの歴史小説やJ.C.リンカーンのケープコッド小説を全部むさぼり読む。
ノンフィクション好き。ウェルズの『世界文化史大系』、『生命の科学』も。ギリシャ史。フランス史。
ジーンズ。エディントンの天体物理学書。入門書だろうか?
他。ロバート・ベンチリー。オグデン・ナッシュ。
211頁。
政治や世界情勢への興味。1936年11月3日、大統領選でローズヴェルト勝利。12月、蒋介石が張学良に監禁さる。中日戦争の導火線。
213頁。
読んだSF作品の情報を索引カードにし、詳価もつけた。
214頁。
1937年5月29日。発表を意識した小説を書きはじめた。「宇宙のコルク抜き」(Cosmic Corkscrew)
19世紀小説やパルプ雑誌の影響で、形容詞と副詞がたっぷり!ただしSFの基本はしっかりしていた。科学的な仮定を考え、その上に小説を組みたてる。
221頁。
1938年1月1日から日記をつけた。毎日。細大もらさず。除々に簡単になって行くが、文筆と交際のみの記録は書き続ける。個人的な感情などは書いてないので、しまっておく必要がない。
243頁。
1938年6月21日。父親に促されて原稿を持ち込む。編集長J. キャンベルは28歳。若造だったがアシモフ19歳からみたら世故たけた大人だっただろう。初めてだが投稿者としてのアシモフを覚えていて、1時間も話をしてくれた。「宇宙のコルク抜き」の原稿もしっかり読んでくれたが、もちろん没。しかしこの会見のおかげでアシモフは著作を続ける勇気を得たので、編集者としてのキャンベルの有能さは大したものと言わなければならない。
246頁。
この頃から日記は簡潔になる。出版のための執筆に力をそそぐためだ。
SF雑誌をよむというエデンの園から、出版のための執筆という別のエデンの園へ。どちらもエデンの園というのがアシモフらしいところか。
248頁。
最初の2作品は時間をかけて修正しながら書いたが、1語1セントという相場ではそれではやっていけない。その後ずっとタイプ原稿は二度以上作らない。うまくいかないときは新たに書き直す。
250頁。
1940年代の有名SF作家はほとんどキャンベルが育てた。特に1938年のアシモフとキャンベルの邂逅はSFの世界をゆるがす大事件と言っていいだろう。
キャンベルの回想をアシモフが綴った文も収めたこのアンソロジーは読んでおくべきか。