『鷗外全集 第三十五巻』の「観潮樓日記」(明治25年 1892年)を読む。新居に移って喜んでいる雰囲気が伝わる。幸田露伴なども訪れて文学談を交わしたのだろうが、いわゆる日常些事を記入した日記という感じがする。
「明治三十一年日記」(1898年)を読む。
文学者の日記らしくなった。おもしろいのは、7月1日の日記。「本草の書に魚食多し。糊紙もて繕完す。」紙魚にやられたのを自分で糊と和紙を使って補修したのだろう。器用な鷗外らしい記述。
トーマス・マンの日記と比べてみたくて読んだのだが、この年の鷗外の日記では旺盛に著述を続けながら、同時に勤務の傍ら書店を巡って多くの書物を買い求め、その書名を丹念に書き留めているところが、似ている。もちろん、著述の記録も日記の主力をなしている。
こころみに、買った書籍の数を日記の記述をもとに数えてみた。
1月は5、2月は7、3月は18、4月は43、5月は14、6月は94、7月は19、8月は10、9月は2、10月は4、11月は11、12月は16、計243。
書名を見ると、和本が多いようだ、一日にたくさん買い込む日もあるのだが、和本なら軽くて便利だっただろう。留学中やその後の仕事に必要な本は洋書が多かったと思うが、このころは暇を見つけてゆっくりと和書を紐解いていたのかも知れない。大正に入ると徳川時代の人物を題材としたものを書き始める。
243の書籍のなかに『蒹葭堂雜録』がある。全部読んでみたいが、『蒹葭堂雜録』だけ、国会図書館DCで検索してみた。
鷗外全集のこの巻の月報に、石黒忠悳(ただのり)の日記の話がでてくる。先輩軍医でドイツにも鷗外と同時期に行っていたらしいが、同一日の体験の日記を比べると、鷗外のがそっけないのに、石黒忠悳の日記は詳細を極める。鷗外日記を補完する資料なのだそうだ。考えてみると、このような日記は世の中にたくさん存在し、そのほとんどは公開されず埋もれたまま消えていくのだろう。残念だがしかたない。でも、今後は今皆が書いているブログなどが、消滅せずに残って、後世の利用に供されるだろう。好むと好まざるにかかわらず、デジタル社会とはそういうものになる。