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2017年2月20日月曜日

マイルスは復活した!そしてドゥルーズも勉強開始!


 ドゥルーズの『ドゥルーズの思想』(1980年 大修館書店)は、フランスでは1977年に『Dialogues』という題名で出版された。クレール・パルネという方との対話から生まれたとある。

 はじめから、対話の形態にはなっていない。しかも、対話なんて成り立たないということが書いてある。「お前は何になるか」という質問は馬鹿げていて、人はその「生成変化」につれて、何になるかも変わっていくからという。

 本はうやうやしく扱うものでない、概念は通じるかどうかが問題で理解したり解釈したりするものではない。#と手厳しい。

 美しい書物とは、すべての誤読を許す書物であり、外国語で書かれているのと同じだ。#ちょっと元気出る話ですね。

 偉大な思想家は不確かな個人生活と不安定な健康の中で、「大いなる健康」の状態の生命を持っている。

 すごいすごい\(^o^)/

 感心したので、仏語版も見たかったがKindleにないのでとりあえず諦めた。インターネット・アーカイブには英語版なら転がっていたのでながめることにする。


 『マイルス・デイビス自叙伝 2』つづき。
 コカインや酒に溺れて、数年をすごしたマイルスだが、1980年(49歳だ!)に世捨て人のような生活から、奇跡の復活を果たす。ジャズミュージシャンの何人かとかつての恋人シシリーの助けのおかげもあるが、本人の音楽に対する強い意志のおかげだろう。

 コロムビアの新しい担当のジョージ・バトラーは俺の音楽的好みや判断を尊重するといい、上層部も説得してくれた。

 新しいメンバーと「ザ・マン・ウイズ・ザ・ホーン」を作り始めた。音楽に対する妥協ない精神はまだ生きていた。

 秋になりビル・エバンスが死んだ。ミンガスも前年に亡くなっている。俺はヤクから足を洗い*つつ*ある。
 1981年の春には、ステージにも立てた。体の不自由な黒人が演奏を喜んでくれる姿にも素直に感動した。泣き崩れそうになった。秋には日本公演にも行った。あいかわらずの大歓迎だった。

 1981年7月に、「ザ・マン・ウイズ・ザ・ホーン」が発売された。よく売れた。良くしてくれたシシリーと正式に結婚した。とたんに態度が大きくなった(T_T)

 薬草治療を受け、体は良くなってきたが、卒中で右腕が一時動かなくなった。アルコールをやめ、ペリエだけをのんでいたら治った。

 ロックの影響でギターをやる若者が増え、そのせいでジャズにはますます人気がなくなった。でもロックでもいいものはいい。プリンスなど最高だ。

 「ウィ・ウォント・マイルス」や「スター・ピープル」をアルバムとして出した。

 1982年のグラミー賞を「ウィ・ウォント・マイルス」で取った。

 1983年夏の終わり。「デコイ」のレコーディングにとりかかった。秋にはヨーロッパに行き、ワルシャワでは大歓迎を受けた。ソ連のアンドロポフ首相はリムジンを差し向けてくれた。俺の耳にはまだ、聴衆の”ウィー・ウォント・マイルス”という歓声が聞こえている。(184ページ)

 #「お前は何になるか」という質問は馬鹿げていて、人はその「生成変化」につれて、何になるかも変わっていくという意味のドゥルーズのコトバが身にしみた。

 黙々と勉強するのみ。

2017年2月19日日曜日

マイルスの音楽の描く放物線は頂点を極めたか、コカインの悪影響も

 『マイルス・デイビス自叙伝 2』のつづき。

 1968年。「イン・ア・サイレント・ウェイ」。ジョー・ザヴィヌルとの素晴らしいコラボレーション。ひよっとしたらこれが最高のアルバムかも知れない。(あくまでも個人的意見(^^; )

 ロックの世界の人気が高まっていた。俺は拗ねるのでなく、ロックの奴らの良い所は認め、取り入れた。まだ俺には未来があり、それに向かって進むつもりだった。(ここはビミョーな表現)

 1969年「ビッチェズ・ブリュー」。レコーディングは創造的な過程で、動的に生きた作曲作業で進んだ。ビデオにも撮ればよかった。

 コカインの消費量が増してきた。

 次の数年間でも怒濤のようにアルバムを作った。憑かれたように。
 「ビッグ・ファン」、「ライブ・イビル」、「ジャック・ジョンソン」、「ブラック・ビューティー」、「マイルス・アット・フィルモア」、「ゲット・アップ・ウィズ・イット」、「オン・ザ・コーナー」、「マイルス・イン・コンサート」など。それぞれのレコードで違うことをやった。だれも聴いたことのないやつを。創造的時期だった。

 たくさんのミュージシャンを使って仕事した。1970年。年収は40万ドル。(有名だった割には少ないとも言えます(ToT) )

 1971年。ダウンビート誌のジャズマン・オブ.ザ・イヤーになった。

 俺の音楽にエレクトロニクスを入れた。音楽理論も勉強した。

 1974年。音楽をやめることを真剣に考え始めた。ブラジルで心臓麻痺をおこしかけた。

 このあと6年間暗闇の時が来る。トランペットには手をふれなかった。復活の自信も無かった。(143ページ)



 やりきれなくなり、『ドゥルーズの思想』(ドゥルーズ 1980年 大修館書店)を眺めはじめる。一行目から引き込まれる。
 「インタビュー、対話、対談、―「自分自信を説明する」のはとても難しい。」



 マイルスの自叙伝もインタビューをもとに別人が書き起こしているが、本当にマイルスを語り尽くしているかは疑問だ。仕方ないが。