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2016年12月19日月曜日

来し方、行くすえを考える

 三浦宗太郎の『岩手における転形期の群像』を、ひととおり読み終えた。もちろん、ブログに書いていないことやそもそも読み取れなかったことなどが多い。99%はそうだろう。しかし、1%は私の今後に影響を与えると思われる。

 読んで、ブログにまとめる中で、新しいテーマも見つかった。「民主戦線」他。

 昨夜は家人のママ友でもあり、元有名バンドのボーカルをやっておられた「高崎昌子」さんのライブにいった。

 2時間ほどのライブを楽しんだが、子育てを終わり、再度唄の道を歩もうとしている姿にも感銘をうけた。2,3年のうちに、声の力強さが戻ってきている。というよりは、年齢なりの唄の力を身に着けつつある、と感じた。
 
 老年期に入りつつある人間は、いかに生きるべきかが問われるが、その一つの答えを見つけてその方向に進もうとされているのは、同年代(いやちょっと上)の、私達にとって、非常に参考になる、そして羨ましい。

 ポイントは、自ら唄おうとするその姿であり、他人を楽しませるのに、自分の楽しみを用いるということだと思う。そして、若いときの唄への情熱を忘れないで、それを活用して年齢なりの努力をすることも。

 若いときの勉強は、年齢がいったときに、じわじわ効いてくる。その「効いてくる」ところを上手く楽しんで活用しなければ。こう思いながら、横浜の街を歩いて帰ってきた。

 彼女の最近のCD。STREET SENSATION
 もっと最近の動画はYoutubeで「高崎昌子」で検索するといくつか出てきます。私のオススメはYou've Got a Friendです。


2016年12月18日日曜日

『岩手における転形期の群像』の紹介 その8(第三部下)

 『岩手における転形期の群像』(三浦宗太郎著、昭和37年、とうほくずうずうべん鼓社発行)。

 昭和21年には、5月以降の食糧危機との闘いがあった。それと同時に国鉄や新聞放送労組、電産労組のゼネストへの動き、それを支持する共同戦線の活動などを特筆すべきであろう。たとえば、十一月一日の「ゼネスト討論会」は盛岡文化懇話会の主催で行われた。

 筆者は荒畑寒村の著作をひきながら、共産党と労農派との確執を描写している。そのなかで、昭和22年2月のゼネストは空前の盛り上がりをみせながらも、マッカーサーの禁止命令のため、実施が断念されてしまった。

 休むことなく、その後すぐ行われた統一選挙へ、時代の波は進む。必ずしも民主戦線の思うようには選挙結果はならなかった。


 メーデーのあと、「民主政府樹立共闘委員会」は、5月11日拡大幹事会をひらき、今後の活動は民主協議会の形態をとり、名称は「民主団体連絡協議会」とし、政党と民主団体の活動分野を区別する旨を決めた。

 「若干の後退を余儀なくされた」(273ページ)と筆者は残念そうに書いている。

 上部構造だけでなく、下部構造も視野に入れた動きをこの本の後編として書きたいという希望が、あとがきに書かれているが、ついにこれは実現しなかった。(この項おわり)


荒畑寒村、『平民社時代』、『寒村自伝(上・下)』

 追伸 義父の書棚から譲り受けた書籍の中に、荒畑寒村の文庫本も発見した。今後これも目を通したい。考えることがあったら、ブログに書きます。
 

2016年12月17日土曜日

『岩手における転形期の群像』の紹介 その7(第三部中)

『岩手における転形期の群像』(三浦宗太郎著、昭和37年、とうほくずうずうべん鼓社発行)。

 昭和20年秋以降、民主戦線を育て、民主的な人民政権の実現を願う運動の記述が続く。全国多数の民主団体・有志が、民主戦線に参加を表明する。
 岩手でも有志による、動きが始まった。筆者はその世話人として飛び回ったとみられる。ただし、社会党と共産党の県組織の動きはにぶい。

 その当時(昭和21年1月?)筆者が書いた論説が、「東北文庫 21年3月号」に掲載された。そのなかで筆者は「(労働組合やもう民組合が「人民協議会」という形をとるようになり、)ここに共産党、社会党、自由党、進歩党の政策綱領に拘束せられることなき人民大衆の、自由なる意志に基く運動が展開せられるのである。かくしてこそ始めて「人民政府」の樹立が可能となるであろう。」(202ページ)と述べている。

本と一緒にこんなCDも掘り出した いいねえ


 現代でも有効な考え方である。当時と今はこのような理想が実現できていないという点で共通性があり、一般の意識を考えると、かえって今は大幅に後退しているといえる。

 人民戦線はまとまらないまま、総選挙が行われ、岩手では自由党・進歩党の保守陣営が62%の得票を獲得、社会党・共産党は15%しか取れなかった。保守の地盤は固い。

 昭和21年5月、岩手の共同戦線は結成され、統一目標を掲げて活動をすることになった。本部方針をもとにした、「救国民主連盟」を作りたいとする社会党県連の態度が決定的となった。

2016年12月16日金曜日

『岩手における転形期の群像』の紹介 その6(第三部上)




 『岩手における転形期の群像』(三浦宗太郎著、昭和37年、とうほくずうずうべん鼓社発行)。

 第三部は「民主戦線とその周辺」、社会党、共産党と民主戦線の関係性が明らかになることを期待しながら読む。

 昭和二〇年十月二〇日、社会党結党大会。十一月八日に共産党結成のための全国協議会が開かれ、岩手県からも参加者がいた。(161ページ)

 社会党盛岡支部は、十二月一日結党。県全体としての体制ができたのは翌二十一年九月二二日の県連臨時大会。農村問題、農民組合の結成に努力した、とある。(163ページ)

 一方、共産党は労働組合組織に重点をおいた。(164ページ)

 昭和二十一年十二月七日社、共、文懇、日農、全岩手産別会議等、民主団体共催の「生活権獲得吉田反動内閣打倒県民大会」においては、なんとか足並みをそろえて、「民主人民政府樹立共同闘争委員会」結成動議が、満場一致で決議された。

 このあと、共産党、社会党の知人を紹介しながら、両党への評価が書かれている。人間的、民主運動的なつながりは、どちらの党の人々に感じていたらしいが、共産党中央の「職業革命家」の権威主義や立身出世主義には反発を感じていたようだ。(181ページ)

 どちらの党にも非常に近い立場にありながら、入党はしていなかったのか。

 

2016年12月15日木曜日

『岩手における転形期の群像』の紹介 その5(第二部下)

『岩手における転形期の群像』(三浦宗太郎著、昭和37年、とうほくずうずうべん鼓社発行)。

 第二部「文化運動とその周辺」の71ページで、
花巻における「光太郎詩碑「一億号泣」撤去」問題を取り上げている。もちろん、「戦争指導者の責任問題は、そのまま棚上げしておいて国民は号泣した」とするのは許せなかったようだ。そうして、「詩碑撤去は、岩手も恥の上塗りをせずにすんだというものであろう。」と結んでいる。(73,74ページ)

 その後の記述は煩瑣にわたるので、省略する。盛岡での自らおよび知人たちを含む人々の「文化活動」について、ページ数をとって紹介している。個人的な思いでとして、自宅にはよく知人が訪れ好きな日本酒を飲み交わしながら、夜を徹して話し込み、妻を驚かす話が書き込まれている。(77ページ)
 私としては義父母の姿が目に浮かび、懐かしさを覚える。

 執筆当時に特に親しかったと思われる人々からのその後の贈呈本が数冊、この本と一緒にみつかった。
 『啄木とその周辺』(浦田敬三、1977年、熊谷印刷出版部)
 『日本人の起源と沖縄』(小野隆祥、1972年、三一書房)
 『宮沢賢治入門』(「宮沢賢治批判」を含む、佐藤勝治、1974年、十字屋書店)
など。



 これらも調べて、面白そうなら紹介したい。次回は「民主戦線」の話に戻る。

2016年12月14日水曜日

『岩手における転形期の群像』の紹介 その4(第二部上)

『岩手における転形期の群像』(三浦宗太郎著、昭和37年、とうほくずうずうべん鼓社発行)。
 
 第二部は「文化運動とその周辺」。「文化運動」?と思ったが、中身を読んで、了解した。この本の筆者にとっては、「文化運動」と労働運動や政治活動は切り離せない。あるいは、「文化運動」の一端として他の活動がある。その最大の理由は昭和二〇年八月一五日までの苦しい生活にある。

 「(敗戦直後の国内問題のうち)主要な命題は政治的には「天皇制存廃」「戦犯追放」の問題であり、経済的には「食料確保」「産業再建」の問題に要約された。」とある。(35ページ)
「戦後の民主勢力は、政治的には社会党と共産党、経済的には労働組合と農民組合が主な組織」とも述べる。(35ページ)
「この4つの民主団体と、密接、不可分」ではありながら、「全然別個なグループの中心に」居たと筆者は述べている。(35ページ)

 このグループは「文化運動」においては「盛岡文化懇話会」を組織し、民主人民戦線内では「文懇グループ」と呼ばれた。

 このあと、いわゆる「文化人」の戦争中の行動を批判している。高村光太郎や横光利一(筆者は「敬愛する」と書いているが)の戦争中の行動や発言に失望した旨の記述が続く。

『山荘の高村光太郎』(佐藤勝治、1,956年、現代社)著者の蔵書
また、前述の鈴木東民の「ナチスの国を見る」も紹介している。これは読んでみたいが、国会図書館に行くしかなさそう。

 この鈴木東民が編集局長だった、当時の読売新聞は「アカハタに近いといわれたりした」とある(42ページ)ので、今から考えると驚き!しかし、正力松太郎を中心とする会社側との労働争議に敗れ、鈴木は「岩手の民主戦線へ参加する」。(43ページ)

 「朝日新聞は新岩手日報との特殊関係(未調査 福地)から多くの記者を岩手に疎開させた」(45ページ)このため、終戦後の新聞業界のストで、新岩手日報だけがストを決行する事となる。
 
 このあと、筆者(三浦)の「文化運動」についての記述が続く。
新岩手日報、東北文庫への寄稿、「岩手出版文化協議会(筆者は幹事)」に参加した「生活者」誌の編集、文化人グループとの交流など。
 このあたりは、資料にあたって調べなければならないが、今のところそのような余裕がないので、将来への重たい宿題としたい。

2016年12月13日火曜日

『岩手における転形期の群像』の紹介 その3(第一部下)

『岩手における転形期の群像』(三浦宗太郎著、昭和37年、とうほくずうずうべん鼓社発行)。



 2.1ストの直前、三浦宗太郎は某銀行従業員組合の労働組合講座で講演。終了時の質問への返答で
「このまま、米占領軍が傍観すれば、必ずストは決行されるだろう。」
しかし
「これまでの占領軍の労働行政をみれば、傍観するとは思われない。」
と答えた、とある。(24ページ)

 そして、その晩、共産党県委員会を訪ねたが、幹部はすでに姿を隠している。そこにいた委員に尋ねると、ストは必ず実行されると楽観的な見方を述べたという。
「この諸君に、果たして政権をまかせることが出来るか…。」と三浦宗太郎は不信感をもったという。(25ページ)

 三浦宗太郎の「占領軍の労働行政」への危惧が、28ページにある。
「(労働関係調整法などの行政的措置は)占領軍の行政目的を阻害しない範囲において、日本の労働組合が自由に活動し、かつ、助長、援助されるということ、ことにその教育面における効果が、根本的な目的であった…。」
 一方で、「労働組合側の盛り上がる闘争の力」はとどめることはできかねるとも、考えていた。

 
そして、1月31日午後。「連合軍の占領目的を阻害する行為」であるとして、ゼネストは禁止命令をうける。


 
 昭和22年4月に、選挙が行われる。3月には占領軍は「共産主義は国際的な民主主義の敵」として、共産党および同調者を排除する姿勢を示した。このため、岩手県内でも「民同派(社会党系)」が「組織的に動き始めた」(32ページ)。

 知事候補として鈴木東民が立候補、そして参院議員候補として若干37歳の三浦宗太郎が立候補したらしい。
 結果は「骨身にこたえるみごとな惨敗」(33ページ)。

 労働委員だった三浦宗太郎は総選挙後に改選を迎え、支持者はおおかったものの、「赤」のレッテルを貼られ、選任を忌避された。「岩手におけるレッドパージ一号というべきであろう。」と自らを評している。(34ページ)


 ここで、第一部は終了。「文化活動とその周辺」という第二部
にうつる。挫折後の心理と行動はどうするのか。続きは明日。

2016年12月12日月曜日

岩手における転形期の群像』の紹介 その2(第一部上)



『岩手における転形期の群像』(三浦宗太郎著、昭和37年、とうほくずうずうべん鼓社発行)。

 上記の本を読み始めたのですが、内容がよくわからない。まず、自分の勉強不足。そして、これは言い訳ながら、今で言うとブログのように、週刊紙に断片的に記事がかかれているため、前後関係や、背後状況がよくわからない。

 そこで、理解の手がかりになりそうな事柄の記述を抜き出して、自分なりに整理してみます。第一部の途中(22ページ)までの範囲です。

以下、出来事とその日付、カッコ内は三浦宗太郎の行動など
(1)昭和20年8月15日 敗戦放送(夜、圧迫の中を生き延びた感激で号泣)

(2)昭和21年3月1日 労働組合法施行

(3)昭和21年4月30日 岩手県地方労働委員会成立(会長となる。翌日の第一回メーデーで挨拶し労働協約と経営協議会の重要性を訴える)

(4)昭和21年8月 東北電気製鉄における組合紛争(労働組合の「経営管理」か、「御用組合」かの紛争、解決まで4ヶ月を費やす)

(5)昭和21年10月 ・金竜山炭鉱不当労働行為事件(労働委員会として解決に努力) 
            ・新聞・通信・放送のゼネスト決行の動き、中央ほかでは中止されたが新岩手日報労組ではスト実施
            ・全産別電算労組の実力行使(労働基準法なき労働関係調整法施行に反対声明)

(6)昭和21年12月 ・第一回労働委員会会長会議が首相官邸で行われる(出席、末広厳太郎博士(主催側)と「第二組合とその御用化」問題を議論)(注)「末広」 ママ 「末弘」が正しいと思われる
            ・「民主人民政府樹立共同闘争委員会」結成

(7)昭和22年1月 岩手県農業会医療従組の労働協約締結の斡旋(不調)

(8)昭和22年1月 2.1ストを控え民主人民政府樹立共同闘争委員会は「危機突破吉田反動内閣打倒県民会議」を開催、鈴木東民氏を知事候補として壇上に迎える

 本には、「「革命近し」の感を強く抱かせずにはおかなかった」と記述されている。

 当時の熱気が伝わってくる、三浦宗太郎は30台後半のはずだが、大活躍で盛岡・県内・東京など飛び回っていた様子。すごいエネルギーだ。

 さていよいよ、2.1ストなのですが、これから学習します。

2016年12月11日日曜日

『岩手における転形期の群像』の紹介 その1(序文、目次、あとがき)

『岩手における転形期の群像』(三浦宗太郎著、昭和37年、とうほくずうずうべん鼓社発行)。

 昭和37年の本、しかも造本には金をかけていないようで、傷みがかなりある。手製のカバーをかけ、少しずつコピーをとって読んだり書き込みをすることにした。
序文と目次と三浦宗太郎本人のあとがきと奥付をコピーして、眺めてみた。



 目次に書かれた大きな項目は以下の通り。
 「序文
 第一部 労働運動とその周辺
 第二部 文化運動とその周辺
 第三部 民主戦線とその周辺
 あとがき」

 あとがき によると
「一九六〇年一月から六二年二月まで六八回、二年余りにわたって、「週間いわて」紙上に連載した」とある。また、
「敗戦からすでに十七年、今書いておかなければ、」とも、ある。そして、
「欲すると否とにかかわらず、東西の谷間になるであろう日本のためには、思想こそ民族の背骨となる」と執筆の意図をあかす。

 序文を寄せたのは鈴木東民と鈴木彦次郎。以下敬称略。
鈴木東民は読売争議で組合長として正力松太郎などと対立。後に共産党入党、離党後、労働者農民党入党、釜石市長をつとめた。(Wikipedeaによる。
 この序文で、高野岩三郎と憲法調査会の思い出を語っている。高野岩三郎ははじめ、「天皇制の全面廃止と軍備の完全撤廃」を主張していたらしい。(私はこれは知りませんでした。勉強不足。)

 鈴木彦次郎は小説家、盛岡の文化人。「終戦時から昭和二十四・五年まで…この時代は、全国的にはげしく吹きすさぶ敗戦のあらしのうちに、新鮮な民主戦線の芽生えがたくましく頭をもたげる』時代だったが、この当時の記憶はすぐにうすれるが、三浦宗太郎のこの本の執筆はそれをおぎなうものだと評している。

 いよいよこのあと、本文を読もうと思います。

2016年12月10日土曜日

大掃除前哨戦たけなわのなか、義父の著書を発掘した


 昨日午後と本日午前をかけて、物置のような部屋を片付けた。狭い場所に荷物が詰まっていて、ワークスペースが少なく、片付けに余分な時間がかかる。
 とくに今年は古本の発掘をやるという目的もかねて作業しているので、途中で昔の本を読みふけってしまい、怒られたりする。

 そんななかで、今朝古いダンボールを開けたら、かなり前に亡くなった義父の蔵書がかなり出てきた。その中にこの本が隠れていた。

 『岩手における転形期の群像』(三浦宗太郎著、昭和37年、盛岡鼓社発行)。

 義父は民主主義活動をやっていたようだが、あまり良く知らない。この本と、一緒に出てきた幾つかの書籍を手がかりに、どんな活動をし、何を考えていたのかを推測してみようと思う。

 実は、退職後はこれを一度やっておかないといけないと思いつつ、生きるための日々を暮らしてしまった。今も状況は変わりないのだが、手付かずにしておくと、間に合わなくなるとの危惧があった。ここで少しでも、形にできると嬉しい。