2017年1月26日木曜日
自分の出生の秘密を知り、トーマス・マンも亡くなり、欧州旅行はてんやわんや
『Man of the World』(Klaus H. Pringsheim)の続き
朝鮮戦争中に米国の兵役を勤めたので、奨学金と、他に生活費月110$を貰えて、カリフォルニア大学ではラッキーな学生生活を送れた。
歴史や政治学を学んだ。バイトをしていたダグラス社でも、勤務中の勉強が許された。
入学後2年の1955年に休暇をとり、欧州に友人と出かけた。
S.S. United States に乗船。ツーリストクラスだが豪華な船旅ができた。サザンプトンで車を借り、まず英国内を旅した。
パリに行き、その2日目に、キオスクで「トーマス・マン死す」と書かれた新聞見出しを発見した!
ホテルに戻り、マン夫人に電話した。「明日お葬式だけど、間に合わないでしょう。予定通りの日にチューリヒにいらっしゃい」。いつもの通り落ち着いた声だった。
予定通りに先に、16年ぶりに会うミュンヒェンの母を訪ねた。まだ若さも残る母も連れて、かねて念願のベニス方面へ向かった。
車の中で母から、写真を渡された。
なんと、これが本当の父親だという。
オペラ歌手のハンスおじさん(昔、知っていた)だった。
写真をみると自分とそっくりだ。
プラハのオペラハウスで、父クラウス・Srと一緒に仕事をしていた時の事らしい。
その後はこの件は母とは話し合わずに旅を続けた。
母をミュンヒェンに送り届けたあと、キルヒベルグのマン夫人を訪ねた。
米国から戻ってからは、地元の「歓迎」もあり、トーマス・マンは割と元気にしていたという。
右脚に軽い痛みが出たので旅先から戻り、病院で診察を受けた。
軽症と皆思っていたが、数日の入院の後、血栓で静かに息を引き取った。解剖で脳以外の広範な血管の石灰沈着が見つかった。
墓参りを済ませたクラウス・Jr. 君は、マン夫人に自分の出生の悩みを打ち明けた。
「でも、あなたはいまでもプリングスハイム家とマン家の一員に変わりない。それどころかトーマスはあなたをすごく可愛がっていたのよ。」、夫人に諭されて気分が落ち着いた。(170ページ)
20年後、マンの日記が公刊されることに成った。初めてカリフォルニアに到着した日の、マンの日記に「bogus son」という記述があり、悩んだ末、「bogus」という単語を抹消してもらった。
2017年1月25日水曜日
読書再開したがトーマス・マンが亡くなってしまいました(T_T)
『Man of the World』は、そろそろ、クラウス・Jr君のやり放題記になりつつあります。
1952年、トーマス・マン夫妻は失意のうちに加州を後にして欧州へ戻る。マッカーシズムの嵐の中で77歳を過ぎ、肺癌手術後に弱った体は耐えられないとの判断だ。
アイクでなくスティーブンソンが選挙で勝てば、大丈夫と言うクラウス・Jr君の説得も効かない。「もしそうなったら戻るよ。」というトーマス・マンの言葉も力がありません。
FBIが目を光らせているので、クラウス・Jr君の友人のつてで秘密裏にKLMの航空券を入手し、トーマス・マン夫婦は逃げるように欧州に向かった。
家財の管理と整理を手伝う。マン夫人からはその手数料月60ドルが送られて来る。
数千冊の蔵書は一冊5¢で業者に引き取られた。トラックに積むときシャベルが使われた。😢
60ドルでは生活には足りない。家電セールスやダグラス社の助手などやったが詰まらない。ただし学費は貯まった。マンの邸宅が買値で売れた。2万5千ドル。マン夫人に小切手を送った。なお、後には300万ドルの値がついたそうだが。あとの祭り。
カリフォルニア大学で勉強して、将来は歴史や政治学を教えたい。という目標が定まった。
高校の既習課程では、数学の単位が不足だ。数学をやり直す気はさらさらないので、大学の学生部長を説得し、初年度オールAをとるという条件で入学追認してもらう約束をさせた。もちろん、すでに知っているような科目を選んだのは言うまでもない(^_-)
30歳になるまで世間の荒波に揉まれてきたクラウス・Jr君の生活能力と交渉能力は大したものだ!
やっと、「自由の国」での大学生活が始まる。
(昨日の夢に出てきたS先輩たちと、『自由からの逃走』の読書会をやったのを思い出しました。どこかに本があるか、発掘してみたい。)
少し後、母親の招きで欧州に旅して1 6年ぶりに邂逅。そして母親から自分の出生についての衝撃的な事実を知らされる。
また、その旅行中にトーマス・マンの訃報に接する。
これらは次回以降。
1952年、トーマス・マン夫妻は失意のうちに加州を後にして欧州へ戻る。マッカーシズムの嵐の中で77歳を過ぎ、肺癌手術後に弱った体は耐えられないとの判断だ。
アイクでなくスティーブンソンが選挙で勝てば、大丈夫と言うクラウス・Jr君の説得も効かない。「もしそうなったら戻るよ。」というトーマス・マンの言葉も力がありません。
FBIが目を光らせているので、クラウス・Jr君の友人のつてで秘密裏にKLMの航空券を入手し、トーマス・マン夫婦は逃げるように欧州に向かった。
家財の管理と整理を手伝う。マン夫人からはその手数料月60ドルが送られて来る。
数千冊の蔵書は一冊5¢で業者に引き取られた。トラックに積むときシャベルが使われた。😢
60ドルでは生活には足りない。家電セールスやダグラス社の助手などやったが詰まらない。ただし学費は貯まった。マンの邸宅が買値で売れた。2万5千ドル。マン夫人に小切手を送った。なお、後には300万ドルの値がついたそうだが。あとの祭り。
カリフォルニア大学で勉強して、将来は歴史や政治学を教えたい。という目標が定まった。
高校の既習課程では、数学の単位が不足だ。数学をやり直す気はさらさらないので、大学の学生部長を説得し、初年度オールAをとるという条件で入学追認してもらう約束をさせた。もちろん、すでに知っているような科目を選んだのは言うまでもない(^_-)
30歳になるまで世間の荒波に揉まれてきたクラウス・Jr君の生活能力と交渉能力は大したものだ!
やっと、「自由の国」での大学生活が始まる。
(昨日の夢に出てきたS先輩たちと、『自由からの逃走』の読書会をやったのを思い出しました。どこかに本があるか、発掘してみたい。)
少し後、母親の招きで欧州に旅して1 6年ぶりに邂逅。そして母親から自分の出生についての衝撃的な事実を知らされる。
また、その旅行中にトーマス・マンの訃報に接する。
これらは次回以降。
| マカオで買った「無実を証明する」鳥のお守り |
2017年1月23日月曜日
学歴の壁に悩んでいるうちに、伯父トーマス・マンに呼ばれたぞ
『Man of the World』の続きを読んでいたら、また胃が痛んできた。稀勢の里の優勝祝で食べすぎたらしい。
クラウス・Jr君の手記は続く。軍曹にはなれたが、このあとの昇進の見込みはなさそうなので、リッチモンドで除隊することにした。軍での勤務成績はまずまずだったので、推薦状をもらって、米国市民権をとることにした。しかし、役所で判事にきびしい質問をされた。朝鮮でのマッカーサーの作戦は間違っていると批判したそうではないか。他にも政治的思想が偏っているという情報もあるぞ。
このような場面では、クラウス・Jr君の物怖じしない性格が役立つ。米国は自由の国と聞いています。それに、マッカーサーは結局中国軍を戦争に引っ張り込んだので、トルーマンによって解任されたではないですか。
これを聞いて、判事はしばらく考えた末、わかったと言い、市民権をもらえることになった。
晴れて市民権も手に入り、除隊して自由の身になったので、ワシントンに行き、政府関係で日本語を活かせる仕事を捜すことにした。日本との通商関係もできつつあるではないか。
まず国務省に行った。申請書を描いて受付の若い女性に渡した。書類をみながら、彼女は、名誉除隊なのですね何年軍隊にいたのですかと聞いた。答えた。4年ですか、どういった教育を受けてきましたか。東京で高校を出、そのあと日本語と日本文化の学校に通い優等で卒業したと答える。そのあとは、軍隊内で語学の先生をやっていました。
学位はあるんですか。と彼女は畳み掛けてきた。最低でも学士でないと駄目です。専門的な仕事だと修士や博士号が必要です。クラウス・Jr君は申請書をふたつに破いて、さよならと言った。
FBIに行っても駄目、他の省庁も同じだった。
ニューヨークに行きマン伯父の知人などを訪ねたが、仕事はない。やむをえず、新聞広告で見つけた、あやしげな輸入品の運送業者(ドイツ系)に直接交渉し、採用してもらった。週給48ドルでなんとか雇ってもらう。輸入された物品を米国内のいろいろな場所に鉄道で送るための伝票を作る仕事だ。iヶ月ほど勤めて、週給も55ドルになったが、どうも面白くない。軍隊内でもそうだったが、クラウス・Jr君は事務作業は嫌いなようだ。
叔母のマン夫人から手紙が来た。知人のフランクの指揮するオペラ「魔笛」を気晴らしに見てきなさい。そして、これは大事なことだけれど、トーマスと私は欧州に帰ろうと思っています。どうも米国の政治事情が思わしくないから。スイスで休暇を取るふりをして、そのまま欧州に留まるつもりです。だから、カリフォルニアに来て、私達の邸宅の管理をして欲しい。すぐに車をとばして帰ってきなさい。
クラウス・Jr君はさっそくヒルマンを飛ばしてカリフォルニアに行った。
トーマス・マンは「ハリウッド10」を擁護するスピーチを公刊していた。密告者のひとりは俳優組合の議長のロナルド・レーガン(後の大統領)だった。ナチス時代にヒトラーの配下がやっていたようなことが米国でも始まっていたわけだ。
マンはすでに77歳。肺の病気もあり弱っていた。(147ページ)
ここで、私も力尽きて寝ることにしたので、続きはまた次回。ともかく、稀勢の里優勝は良かった。多くの人に努力は報われることがあるという勇気を与えた\(^o^)/
クラウス・Jr君の手記は続く。軍曹にはなれたが、このあとの昇進の見込みはなさそうなので、リッチモンドで除隊することにした。軍での勤務成績はまずまずだったので、推薦状をもらって、米国市民権をとることにした。しかし、役所で判事にきびしい質問をされた。朝鮮でのマッカーサーの作戦は間違っていると批判したそうではないか。他にも政治的思想が偏っているという情報もあるぞ。
このような場面では、クラウス・Jr君の物怖じしない性格が役立つ。米国は自由の国と聞いています。それに、マッカーサーは結局中国軍を戦争に引っ張り込んだので、トルーマンによって解任されたではないですか。
これを聞いて、判事はしばらく考えた末、わかったと言い、市民権をもらえることになった。
晴れて市民権も手に入り、除隊して自由の身になったので、ワシントンに行き、政府関係で日本語を活かせる仕事を捜すことにした。日本との通商関係もできつつあるではないか。
まず国務省に行った。申請書を描いて受付の若い女性に渡した。書類をみながら、彼女は、名誉除隊なのですね何年軍隊にいたのですかと聞いた。答えた。4年ですか、どういった教育を受けてきましたか。東京で高校を出、そのあと日本語と日本文化の学校に通い優等で卒業したと答える。そのあとは、軍隊内で語学の先生をやっていました。
学位はあるんですか。と彼女は畳み掛けてきた。最低でも学士でないと駄目です。専門的な仕事だと修士や博士号が必要です。クラウス・Jr君は申請書をふたつに破いて、さよならと言った。
FBIに行っても駄目、他の省庁も同じだった。
ニューヨークに行きマン伯父の知人などを訪ねたが、仕事はない。やむをえず、新聞広告で見つけた、あやしげな輸入品の運送業者(ドイツ系)に直接交渉し、採用してもらった。週給48ドルでなんとか雇ってもらう。輸入された物品を米国内のいろいろな場所に鉄道で送るための伝票を作る仕事だ。iヶ月ほど勤めて、週給も55ドルになったが、どうも面白くない。軍隊内でもそうだったが、クラウス・Jr君は事務作業は嫌いなようだ。
叔母のマン夫人から手紙が来た。知人のフランクの指揮するオペラ「魔笛」を気晴らしに見てきなさい。そして、これは大事なことだけれど、トーマスと私は欧州に帰ろうと思っています。どうも米国の政治事情が思わしくないから。スイスで休暇を取るふりをして、そのまま欧州に留まるつもりです。だから、カリフォルニアに来て、私達の邸宅の管理をして欲しい。すぐに車をとばして帰ってきなさい。
クラウス・Jr君はさっそくヒルマンを飛ばしてカリフォルニアに行った。
トーマス・マンは「ハリウッド10」を擁護するスピーチを公刊していた。密告者のひとりは俳優組合の議長のロナルド・レーガン(後の大統領)だった。ナチス時代にヒトラーの配下がやっていたようなことが米国でも始まっていたわけだ。
マンはすでに77歳。肺の病気もあり弱っていた。(147ページ)
ここで、私も力尽きて寝ることにしたので、続きはまた次回。ともかく、稀勢の里優勝は良かった。多くの人に努力は報われることがあるという勇気を与えた\(^o^)/
2017年1月22日日曜日
トーマス・マン夫人の甥は相当お茶目だったが、時代の雰囲気は重苦しい
今年の目標の一つにJazzをもっと聴く、ということを挙げた。
そう意識していると、『村上春樹 雑文集』(2015年 新潮文庫)が、本箱の中で目に止まった。163ページに「ビル・クロウとの会話」なる文章があり、この「渋い」ベーシストの書いた本も、村上さんは訳しているのに気づいた。物好きだなあ。
トーマス・マンはクソ真面目なので、ウエストコーストJazzなど無視していただろうが、今回読んでいるクラウス・プリングスハイム・Jr君は、Jazzも大いに楽しんだだろう。多分ダンスしながら。
『Man of the World』によると、チャップリンの『伯爵夫人』の私的試写会に、トーマス・マンもクラウス・Jrも出席しているが、当然この行動は、米国当局のマークするところとなっただろう。
クラウス・Jr君と父親は、実は裕福でないマン家の内情がわかったので、マンの邸宅を出て、自活の道を探る。父親は高名な指揮者だったので、大学の音楽学科(?)の講師に就職。クラウス・Jr君は、日本で習い覚えた日本語を活かそうと、大学の図書館に行き、就職口を捜す。図書館では、大量の日本語図書が手に入っていたが未整理だったので、整理係に雇うことにした。時給30セント。安いが背に腹は変えられない。
しばらく、本を整理してみると、どうも料理や庭仕事など、実用書ばかりが多い。実は、これらの本は大戦中に収容所に入れられた、日本人入植者たちが家に残さざるを得なかった本だったらしい。あまり価値のある本はないし、何より給料が安くて、暮らしていけない。ダメ元で申し込んだ昇給も断られたので、それを機会にクラウス・Jr君は、やめてしまった。
次の就職口は、タクシーの運転手。勤務はきついが、給料の同額か、それ以上のチップが手に入る。週に数十ドルから100ドルくらいは手に入る。
ここで一つ問題がある。クラウス・Jr君は日本から来て間もないので、ロスアンゼルスの地理をまったく知らない。あわてて地図を買って勉強した。付け焼き刃の知識で運転していたが、乗客に、「近道を知っているなら、教えてね」と言うと、大抵の客は、ナビゲーションをしてくれる。ので、ほとんど困らなかった。と彼は書いている。大した度胸だ。
有名人・スターなどを乗せたこともある。一度は、ハワード・ヒューズが裁判所から出てきたところをのせた。どうも非米活動委員会の取り調べの帰りだったらしい。でも彼は非常に冷静で礼儀正しく、降りるときには料金(数十ドル)以外に、チップだと100ドルくれた。これには助かった。
タクシー運転手には誘惑も多い。料金代わりと言って自宅に連れ込もうとする女性もおり、数ヶ月で運転手はやめた。
そもそも彼には、日本にのこしてきた恋人(NAOKO)がいる。会いたいので、日本に行けるような就職口を考えた。軍人(軍属)になるしかない。そこで、なんと徴兵検査を受けて、新兵訓練を受けようとする。さすがにマン夫婦に相談したが、お前のすきにしろと言う返事。訓練を数ヶ月受けて、兵隊になった。配属希望は、日本語をいかした日本である。朝鮮戦争が始まろうとしていたが、朝鮮に行ったとしても、休暇は日本でとれると聞いている。
ところが、残念ながら、なぜか前線には出されず、米国で兵士に日本語を教えるようにと言われる。持ち前の器用さで、うまく日本語を教えて、昇進もした。下士官待遇になり、食堂にいくと、良いビフテキを選んで、振る舞ってもらえる。もう一度、日本に行きたいと上司に相談したが、断られる。
理由は、彼の出身(ユダヤ系)にあった。そして、お前のおじ(トーマス・マン)はコミュニストの手先だから、とも言われた。チャップリンの映画試写会に出たのも裏目に出たのかもしれない。
彼はNAOKOに手紙を出し、日本には当分行けないと打ち明けた。短い手紙が返ってきて、二人は別れることにした。
彼は、このあと一時的に軍の資材管理システム(!)のオペレーターをやらされたが、つまらないので軍をやめた。
コミュニズムへの米国の神経質な対応が、なんとなく伝わってくる。今日はここまで。
ピアノJazzがやはり良い。ビル・エバンスを始めとして、クロード・ウィリアムソンやバド・パウエルやエロール・ガーナーやオスカー・ピーターソンなどを聴きまくる。
2017年1月21日土曜日
若者の目から見たトーマス・マンの日常は非カリフォルニア的
ルカーチに触発されて、トーマス・マンの晩年の政治思想を探りたくなったが、思いつく資料のうちでもっとも重要そうな『トーマス・マン日記』は1946年3月分までしかない。このあとの巻は、高価なのでまだ入手できずにいる。
トーマス・マンの義理の甥、つまりカーチャ夫人の双子の兄の息子のクラウス・プリングスハイム・Jr(1923年生まれ)の書いた手記のペーパーバックが先日手に入った。『Man of the World』(19995年 モザイク・プレス)
クラウスという名は平凡な名前らしくマン家にもプリングスハイム家にもたくさんいてまぎらわしい。父親の方のクラウスさんはナチスから逃れ日本に来ていた高名な指揮者である。息子のクラウス・Jrとともに、1946年10月に苦しいい生活を送っていた日本を出て、米国カリフォルニアに向かう。身元引受人はトーマス・マンである。
10月末にシアトルに着き、バスを乗り継いで、トーマス・マンの住んでいたカリフォルニア州パシフィック・パリセーズ(サンタモニカの近く)を目指す。
広壮な住宅を建てて住んでいたトーマス・マンだが、台所事情は苦しかったらしい。印税5万ドルの手取り分が半分でそれをほとんど住宅の維持に費やしていた。クラウス・Jrは身元引受人のトーマス・マンの銀行口座残高と入金予定まで、入国書類を見て知っていた。
マンは住宅だけでなく身仕舞いにも気を使っていた、ベッドルーム以外では365日ネクタイをしていたとクラウス・Jrは書いている。来客も多かったが、父親に似て生真面目な性格だったのだろう。
通常マンぐらいの生活を送るなら、午餐や夕食にはワインを飲むのが普通だろう。クラウス・Jrもカーチャ夫人に頼まれて、ワインを買ってくることがあった。気を使って「いくらのワインにするか」をきくと1ドル強のワインをといわれたらしい。カーチャ夫人は、一人で家政を受け持ち、買い出しもしたらしいが、クラウス・Jrに運転を教え、アッシー君をやらせたらしい。マンはもちろん運転などしない。運転手がいるのが当然という考えなのだろう。
マンは、時計のような規則正しい生活を送っていた。これは有名な話だが、改めて、若者の目から見た記述を見ると、可笑しい。
朝は8時に起きる。ずれても2・3分のちがい。
9時まで時間をかけて身仕舞いをする。
9時に朝食。トースト、シリアル、卵、ジャム、バター、紅茶またはコーヒーそしてオレンジジュース。ロサンゼルス・タイムス紙を同時に読む。
9時40分。じゃ、仕事するよと書斎に向かう。書斎にはこの間誰も入らない。(ということはその前にメイドが掃除はしておくのだろう。)
11時15分。イタリアン・ベルモットに卵黄を混ぜた飲み物を、クラウス・Jrがそっと書斎に届ける。マンは書斎机ではなく、ソファの端に座り、書物用の板(60センチくらい)を膝に載せ、黄色のリーガルパッドにモンブラン万年筆で、しきりに書きものをしている。
語句の手直し以外、ほとんど書き直しをしなかったマンだが、そのかわり極端な遅筆。一日(といっても午前中半日だが)に1ページしか書かない。
1時半、散歩に行く。余計な会話はしたくないと、犬を連れて、徒歩で歩きに行く。たいていは夫人が車で追いかけ、歩き疲れたマンを連れ帰ってくる。
2時15分。午餐を告げるゴングが鳴らされる。来客があればワインが出るが、それ以外は簡素な食事。午餐のあとは神聖な煙草の時間である。
このあと、書斎で読書と全世界から届く手紙の処理。マンは筆まめだった。
5時にお茶。人に(依頼されて)会うのはこの時間。
7時45分。ディナーの時間。家族・親族間で猛烈な勢いで議論をしながらの食事である。
ディナーのあとは音楽の時間。Hi-Fiセットを手に入れたばかりのマンは、ゆっくりと音楽を楽しむ。「小説家でなかったら、私は作曲家になっていただろう。セザール・フランクみたいな!」とクラウス・Jrに語ったことがあるらしい。
もちろん、外出することもあった。
このあと、チャップリンに招かれて、ディズニーのスタジオ(借り切り)で、多くのスターと「Monsieur Verdoux」(「殺人狂時代」)の試写を見たという記述が続く。(115ページ)
なかなか、赤狩りの記述にたどり着かないが、もう少し頑張ってみます。それにしても、『トーマス・マン日記』安く手に入らないかな? もちろん古本で。
トーマス・マンの義理の甥、つまりカーチャ夫人の双子の兄の息子のクラウス・プリングスハイム・Jr(1923年生まれ)の書いた手記のペーパーバックが先日手に入った。『Man of the World』(19995年 モザイク・プレス)
クラウスという名は平凡な名前らしくマン家にもプリングスハイム家にもたくさんいてまぎらわしい。父親の方のクラウスさんはナチスから逃れ日本に来ていた高名な指揮者である。息子のクラウス・Jrとともに、1946年10月に苦しいい生活を送っていた日本を出て、米国カリフォルニアに向かう。身元引受人はトーマス・マンである。
10月末にシアトルに着き、バスを乗り継いで、トーマス・マンの住んでいたカリフォルニア州パシフィック・パリセーズ(サンタモニカの近く)を目指す。
広壮な住宅を建てて住んでいたトーマス・マンだが、台所事情は苦しかったらしい。印税5万ドルの手取り分が半分でそれをほとんど住宅の維持に費やしていた。クラウス・Jrは身元引受人のトーマス・マンの銀行口座残高と入金予定まで、入国書類を見て知っていた。
マンは住宅だけでなく身仕舞いにも気を使っていた、ベッドルーム以外では365日ネクタイをしていたとクラウス・Jrは書いている。来客も多かったが、父親に似て生真面目な性格だったのだろう。
通常マンぐらいの生活を送るなら、午餐や夕食にはワインを飲むのが普通だろう。クラウス・Jrもカーチャ夫人に頼まれて、ワインを買ってくることがあった。気を使って「いくらのワインにするか」をきくと1ドル強のワインをといわれたらしい。カーチャ夫人は、一人で家政を受け持ち、買い出しもしたらしいが、クラウス・Jrに運転を教え、アッシー君をやらせたらしい。マンはもちろん運転などしない。運転手がいるのが当然という考えなのだろう。
マンは、時計のような規則正しい生活を送っていた。これは有名な話だが、改めて、若者の目から見た記述を見ると、可笑しい。
朝は8時に起きる。ずれても2・3分のちがい。
9時まで時間をかけて身仕舞いをする。
9時に朝食。トースト、シリアル、卵、ジャム、バター、紅茶またはコーヒーそしてオレンジジュース。ロサンゼルス・タイムス紙を同時に読む。
9時40分。じゃ、仕事するよと書斎に向かう。書斎にはこの間誰も入らない。(ということはその前にメイドが掃除はしておくのだろう。)
11時15分。イタリアン・ベルモットに卵黄を混ぜた飲み物を、クラウス・Jrがそっと書斎に届ける。マンは書斎机ではなく、ソファの端に座り、書物用の板(60センチくらい)を膝に載せ、黄色のリーガルパッドにモンブラン万年筆で、しきりに書きものをしている。
語句の手直し以外、ほとんど書き直しをしなかったマンだが、そのかわり極端な遅筆。一日(といっても午前中半日だが)に1ページしか書かない。
1時半、散歩に行く。余計な会話はしたくないと、犬を連れて、徒歩で歩きに行く。たいていは夫人が車で追いかけ、歩き疲れたマンを連れ帰ってくる。
2時15分。午餐を告げるゴングが鳴らされる。来客があればワインが出るが、それ以外は簡素な食事。午餐のあとは神聖な煙草の時間である。
このあと、書斎で読書と全世界から届く手紙の処理。マンは筆まめだった。
5時にお茶。人に(依頼されて)会うのはこの時間。
7時45分。ディナーの時間。家族・親族間で猛烈な勢いで議論をしながらの食事である。
ディナーのあとは音楽の時間。Hi-Fiセットを手に入れたばかりのマンは、ゆっくりと音楽を楽しむ。「小説家でなかったら、私は作曲家になっていただろう。セザール・フランクみたいな!」とクラウス・Jrに語ったことがあるらしい。
もちろん、外出することもあった。
このあと、チャップリンに招かれて、ディズニーのスタジオ(借り切り)で、多くのスターと「Monsieur Verdoux」(「殺人狂時代」)の試写を見たという記述が続く。(115ページ)
なかなか、赤狩りの記述にたどり着かないが、もう少し頑張ってみます。それにしても、『トーマス・マン日記』安く手に入らないかな? もちろん古本で。
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