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2017年9月4日月曜日

「闘う文豪とナチス・ドイツ」を読了、次はカフカとアラビア語かしら

 残念ながら読み終えてしまった。今朝読んだ部分は、実際には「トーマス・マン日記」を読んでいない時期に関する部分なので、「残念」というわけだ。

 「トーマス・マン日記」の「主要な」部分は、1933年から1945年までのナチス・ドイツからの亡命生活の部分だし、「闘う文豪とナチス・ドイツ」もこの部分に多くのページを割いている。

 第2の亡命、マッカーシズムからのがれてスイスへの移動、が今朝読んだ部分のクライマックス。ただし、この二回目の亡命の内幕については、マンは日記でも多くを語っていないようだ。それだけ不本意なことだったのだろうと思う。

 ともかく、「トーマス・マン日記」の後半を手にいれて読まなくてはならないが、高価なのでなかなか手に入りそうもない。

 安いので、ドイツ語版をとも思ったが、読む前にと学んでいるドイツ語が半年たってもなかなか身につかない。

 なにごとにも時間は必要だ。

 晩年、トーマス・マンはカフカにも興味を示している。「カフカ日記」も読んでいたようだ。

 「カフカ日記」も高い。即決では買えないので、欲しいものリストに入れておく。とりあえず、図書館を頼ろう。

 NUKのドイツ語入門ラジオテキストはなかなか内容がある。基礎編はドイツの街と建築の紹介にもなっている。昔訪れた場所の記述はなつかしい。応用編のほうは、森鴎外の「独逸日記」が題材となっている。これはまとめてテキストと「独逸日記」を読んで見る価値がありそうだ。



 ラジオテキストの広告の部分を見ていたら、アラビア語もやってみたくなった。半年分の教材が800円強なので、10月からの分のテキストを買ってみるつもりだ。

2017年2月2日木曜日

ファインマンにトーマス・マン、ウルトラマンはこない

 昨日はやや快調だった。したがって、滞っていた日常家事も風呂掃除、部屋の掃除、食事の買い物、布団の上げ下げなどができた。食事支度は自分の分だけ。
 今日もここ(十五時)までは快調だったが、なんだか少し腹の具合がよくない。今日はこれからは気楽に過ごそう。買い物やめようかしら。




 昨夜は『ファインマン物理学』を少し、読み直そうとしたが、「ファインマン序」の後半で、”教育というものは...”という引用があり、引用元が(ギボンス)となっているのに引っかかって先に進めない。これはGibbonのことだろうが、なぜギボンスとしたのか?意味がわからない。
 Gibbonの本を引っ張り出すついでに、本棚を模様替えしてみた。また古い本が発掘できた。井上清の『天皇制』など。

 ギモンは解決しないので、ひとまず『ファインマン物理学』はしまいこんだ。そのうち、注文していた『聞かせてよ、ファインマンさん』(2009年 岩波現代文庫)が到着。拾い読みする。



 33ページに「とにかく教育法なんて僕はほんとに知らないんだ。」とあった。レベルも興味もまちまちな(新入生)の全部を満足はさせられない。もっともな話だ。

 この本の話ではないが、米国ではこのあと学生が教師を採点するなどという愚挙に走ったと思う。日本でも最近はそうなっているようだし、企業内でもその猿真似をしようという動きもある。あほらしいが、もう直接関係はないので気は楽だ。

 今朝、TwitterのTLを見ていたら、とり・みき先生が小松左京の『アメリカの壁』を、再印刷すると売れるぞ、とおっしゃっていた。面白そうなので慌てて、(中古だが)注文してしまった。今週中に来ないかな。楽しみである。

 文章を綴っていたら、不快感がややおさまった。先日カラオケ仲間と話したが、年を取って体調も悪いからと言っておとなしくしていると、もっと老け込む。なにか新しいことや自分の好きなことをやって気分転換をするのがいいということになった。せっかく生きてこれたので、好き勝手をやって楽しみたいものだ。

 そこでトーマス・マン日記1946-1948(独語版):Thomas Mann 『Tagebuecher 1946 - 1948: 28. 5. 1946 - 31. 12. 1948』を購入しちゃいました。

  ドイツ語のおさらいしないと。元の会社の先輩(定年後ドイツ語通訳の資格取ったヒト)に教えてもらうか?


 Twitterをまた読んでいると放送大学の宇宙関係の新科目が紹介されている。
 「初歩からの宇宙の科学('17)」 受けてみます\(^o^)/

 そんなこんなで今年勉強することたちがいつのまにか決まっていく(^_-)


2017年1月31日火曜日

いつまでも修行の人生だなや

 一年近く、原因不明の消化不良に悩まされている。胃カメラ飲んだり、肝臓・胆管などのCT、MRI検査などを実施した。
 格別の異常は見つからない。こういう病気(?)を「機能性ディスペプシア」と呼ぶのだという説もインターネットを飛び交う。要するに原因不明の消化不良。

 それなら、日々の生活を変えて直そうと思ったりもします。

 少し具合がいいと(#朝は具合がよいことが多い。寝ている間は絶食状態だから当たり前だ。)そろそろ治ってきたかと誤解する。

 治りかけの気持ちよさから連想して、思いついたので、青空文庫で堀辰雄先生の『恢復記』を読みなおしてみた。ついでに同じく青空文庫にある神西清さんの同名の小説も。
 病後の、頼りないが、爽やかな気持ちがうまく表現されている。

 こうなるとトーマス・マンの『魔の山』も当然読むべきだが・・・。病気にあこがれる主人公にお灸をすえる人文学者の先生のくだり。ここに深入りすると時間がかかるので、踏みとどまる。

 不調の原因には、精神的な要因が多そうな気もする。家族や友人の病気への心配など。経済的不安もあるかも。

 とりあえずの対策案) ゆっくり、正確・確実に生きる。自分のリズムでやりたい事だけをする。
 好みに合わない他の人や物に対して、癇癪をおこさない。批判は直接的にせず、相手が悟るように促す。

 いまいち、具体的でない。も少しじっくりと考え直すことにする。

 トーマス・マン日記は日本語版が高すぎるので、ドイツ語版で読んでみようと思いつく。日記なら簡単な文章しか書かないだろう。

 トーマス・マンの小説はやめておいたほうがいいと言われてますね。一つの文が1ページ以上になることがザラらしい。小塩節先生は、マン夫人に、区切って訳しなさいと助言を受けたとか。(『トーマス・マンとドイツの時代』中公新書 1992年 178ページ)

 でもなかなか原書がみつからない。やめよかな。やめるのよそうかな。

 よせばいいのに、カラオケ仲間の新年会に出かけた。ウーロン茶としらすおろしとあん肝しか摂れなかったが、まあ、楽しかった。飲み会だけでカラオケは中止。病人が多い。上記の精神的な病気の克服の話をする。帰りは寒かった。



 会がはじまるまえに、仕入れた本。眺めながら寝ます。

2017年1月27日金曜日

盲目的な共産主義憎悪は危険とあの微温的なトーマス・マンも言っている

 「寛容」という言葉が大切であることは、学生時代に渡辺一夫先生に教えられた。著書で。

 ナチ・ドイツから亡命した先の米国から、また「亡命」をしなければならなかったトーマス・マン先生も

 「ヒステリックな、非合理的な、盲目の共産主義憎悪は危険を意味しており、この国共産主義よりもはるかに恐ろしい...早く正気に返らねば、よい結果を何一つ招きえないばかりか、最悪の事態に通じうる...」

と1951年4月に雑誌社の編集長との論争で述べている。(トーマス・マン全集別巻 728ページ 新潮社 1972年)

 同じ間違いををより広く深く繰り返していくのが人間の世界か?

 いや、一見無力に見える「寛容」の力を我々は信じていかなくてはいけない。歴史や政治を勉強するならここに気づかなくてはならないよ。クラウス・Jr君と思いながら、『Man of the World』の続きを読んでいきます。特に面白いことを見つけたら、またこのブログで報告します。

 今朝は「ディープネットワークを用いた大域特徴と局所特徴の学習による白黒写真の自動色付け」なる研究の成果を試してみた。

 要するに、昔の豪華客船の白黒写真をよりリアルにして見たいのです。手元の『世界の船 ’75』(83ページ 朝日新聞社)(白黒写真ばっかり!)のなかから、オリンピック号の写真をお借りして彩色してみました。なかなかいいです。もっとやってみます。


2017年1月26日木曜日

自分の出生の秘密を知り、トーマス・マンも亡くなり、欧州旅行はてんやわんや



 『Man of the World』(Klaus H. Pringsheim)の続き

 朝鮮戦争中に米国の兵役を勤めたので、奨学金と、他に生活費月110$を貰えて、カリフォルニア大学ではラッキーな学生生活を送れた。
 歴史や政治学を学んだ。バイトをしていたダグラス社でも、勤務中の勉強が許された。

 入学後2年の1955年に休暇をとり、欧州に友人と出かけた。
 S.S. United States に乗船。ツーリストクラスだが豪華な船旅ができた。サザンプトンで車を借り、まず英国内を旅した。
 パリに行き、その2日目に、キオスクで「トーマス・マン死す」と書かれた新聞見出しを発見した!

 ホテルに戻り、マン夫人に電話した。「明日お葬式だけど、間に合わないでしょう。予定通りの日にチューリヒにいらっしゃい」。いつもの通り落ち着いた声だった。
 予定通りに先に、16年ぶりに会うミュンヒェンの母を訪ねた。まだ若さも残る母も連れて、かねて念願のベニス方面へ向かった。

 車の中で母から、写真を渡された。
 なんと、これが本当の父親だという。
 オペラ歌手のハンスおじさん(昔、知っていた)だった。
 写真をみると自分とそっくりだ。
 プラハのオペラハウスで、父クラウス・Srと一緒に仕事をしていた時の事らしい。
 その後はこの件は母とは話し合わずに旅を続けた。

 母をミュンヒェンに送り届けたあと、キルヒベルグのマン夫人を訪ねた。
 米国から戻ってからは、地元の「歓迎」もあり、トーマス・マンは割と元気にしていたという。
 右脚に軽い痛みが出たので旅先から戻り、病院で診察を受けた。
 軽症と皆思っていたが、数日の入院の後、血栓で静かに息を引き取った。解剖で脳以外の広範な血管の石灰沈着が見つかった。

 墓参りを済ませたクラウス・Jr. 君は、マン夫人に自分の出生の悩みを打ち明けた。
 「でも、あなたはいまでもプリングスハイム家とマン家の一員に変わりない。それどころかトーマスはあなたをすごく可愛がっていたのよ。」、夫人に諭されて気分が落ち着いた。(170ページ)

 20年後、マンの日記が公刊されることに成った。初めてカリフォルニアに到着した日の、マンの日記に「bogus son」という記述があり、悩んだ末、「bogus」という単語を抹消してもらった。

 

2017年1月25日水曜日

読書再開したがトーマス・マンが亡くなってしまいました(T_T)

 『Man of the World』は、そろそろ、クラウス・Jr君のやり放題記になりつつあります。

 1952年、トーマス・マン夫妻は失意のうちに加州を後にして欧州へ戻る。マッカーシズムの嵐の中で77歳を過ぎ、肺癌手術後に弱った体は耐えられないとの判断だ。
 アイクでなくスティーブンソンが選挙で勝てば、大丈夫と言うクラウス・Jr君の説得も効かない。「もしそうなったら戻るよ。」というトーマス・マンの言葉も力がありません。

 FBIが目を光らせているので、クラウス・Jr君の友人のつてで秘密裏にKLMの航空券を入手し、トーマス・マン夫婦は逃げるように欧州に向かった。
 家財の管理と整理を手伝う。マン夫人からはその手数料月60ドルが送られて来る。
 数千冊の蔵書は一冊5¢で業者に引き取られた。トラックに積むときシャベルが使われた。😢

 60ドルでは生活には足りない。家電セールスやダグラス社の助手などやったが詰まらない。ただし学費は貯まった。マンの邸宅が買値で売れた。2万5千ドル。マン夫人に小切手を送った。なお、後には300万ドルの値がついたそうだが。あとの祭り。

 カリフォルニア大学で勉強して、将来は歴史や政治学を教えたい。という目標が定まった。
 高校の既習課程では、数学の単位が不足だ。数学をやり直す気はさらさらないので、大学の学生部長を説得し、初年度オールAをとるという条件で入学追認してもらう約束をさせた。もちろん、すでに知っているような科目を選んだのは言うまでもない(^_-)

 30歳になるまで世間の荒波に揉まれてきたクラウス・Jr君の生活能力と交渉能力は大したものだ!
 やっと、「自由の国」での大学生活が始まる。

(昨日の夢に出てきたS先輩たちと、『自由からの逃走』の読書会をやったのを思い出しました。どこかに本があるか、発掘してみたい。)

 少し後、母親の招きで欧州に旅して1 6年ぶりに邂逅。そして母親から自分の出生についての衝撃的な事実を知らされる。
 また、その旅行中にトーマス・マンの訃報に接する。
これらは次回以降。

マカオで買った「無実を証明する」鳥のお守り

2017年1月22日日曜日

トーマス・マン夫人の甥は相当お茶目だったが、時代の雰囲気は重苦しい



 今年の目標の一つにJazzをもっと聴く、ということを挙げた。
 そう意識していると、『村上春樹 雑文集』(2015年 新潮文庫)が、本箱の中で目に止まった。163ページに「ビル・クロウとの会話」なる文章があり、この「渋い」ベーシストの書いた本も、村上さんは訳しているのに気づいた。物好きだなあ。

 トーマス・マンはクソ真面目なので、ウエストコーストJazzなど無視していただろうが、今回読んでいるクラウス・プリングスハイム・Jr君は、Jazzも大いに楽しんだだろう。多分ダンスしながら。

 『Man of the World』によると、チャップリンの『伯爵夫人』の私的試写会に、トーマス・マンもクラウス・Jrも出席しているが、当然この行動は、米国当局のマークするところとなっただろう。

 クラウス・Jr君と父親は、実は裕福でないマン家の内情がわかったので、マンの邸宅を出て、自活の道を探る。父親は高名な指揮者だったので、大学の音楽学科(?)の講師に就職。クラウス・Jr君は、日本で習い覚えた日本語を活かそうと、大学の図書館に行き、就職口を捜す。図書館では、大量の日本語図書が手に入っていたが未整理だったので、整理係に雇うことにした。時給30セント。安いが背に腹は変えられない。

 しばらく、本を整理してみると、どうも料理や庭仕事など、実用書ばかりが多い。実は、これらの本は大戦中に収容所に入れられた、日本人入植者たちが家に残さざるを得なかった本だったらしい。あまり価値のある本はないし、何より給料が安くて、暮らしていけない。ダメ元で申し込んだ昇給も断られたので、それを機会にクラウス・Jr君は、やめてしまった。

 次の就職口は、タクシーの運転手。勤務はきついが、給料の同額か、それ以上のチップが手に入る。週に数十ドルから100ドルくらいは手に入る。
 ここで一つ問題がある。クラウス・Jr君は日本から来て間もないので、ロスアンゼルスの地理をまったく知らない。あわてて地図を買って勉強した。付け焼き刃の知識で運転していたが、乗客に、「近道を知っているなら、教えてね」と言うと、大抵の客は、ナビゲーションをしてくれる。ので、ほとんど困らなかった。と彼は書いている。大した度胸だ。

 有名人・スターなどを乗せたこともある。一度は、ハワード・ヒューズが裁判所から出てきたところをのせた。どうも非米活動委員会の取り調べの帰りだったらしい。でも彼は非常に冷静で礼儀正しく、降りるときには料金(数十ドル)以外に、チップだと100ドルくれた。これには助かった。

 タクシー運転手には誘惑も多い。料金代わりと言って自宅に連れ込もうとする女性もおり、数ヶ月で運転手はやめた。

 そもそも彼には、日本にのこしてきた恋人(NAOKO)がいる。会いたいので、日本に行けるような就職口を考えた。軍人(軍属)になるしかない。そこで、なんと徴兵検査を受けて、新兵訓練を受けようとする。さすがにマン夫婦に相談したが、お前のすきにしろと言う返事。訓練を数ヶ月受けて、兵隊になった。配属希望は、日本語をいかした日本である。朝鮮戦争が始まろうとしていたが、朝鮮に行ったとしても、休暇は日本でとれると聞いている。

 ところが、残念ながら、なぜか前線には出されず、米国で兵士に日本語を教えるようにと言われる。持ち前の器用さで、うまく日本語を教えて、昇進もした。下士官待遇になり、食堂にいくと、良いビフテキを選んで、振る舞ってもらえる。もう一度、日本に行きたいと上司に相談したが、断られる。

 理由は、彼の出身(ユダヤ系)にあった。そして、お前のおじ(トーマス・マン)はコミュニストの手先だから、とも言われた。チャップリンの映画試写会に出たのも裏目に出たのかもしれない。

 彼はNAOKOに手紙を出し、日本には当分行けないと打ち明けた。短い手紙が返ってきて、二人は別れることにした。

 彼は、このあと一時的に軍の資材管理システム(!)のオペレーターをやらされたが、つまらないので軍をやめた。

 コミュニズムへの米国の神経質な対応が、なんとなく伝わってくる。今日はここまで。

 ピアノJazzがやはり良い。ビル・エバンスを始めとして、クロード・ウィリアムソンやバド・パウエルやエロール・ガーナーやオスカー・ピーターソンなどを聴きまくる。

2017年1月21日土曜日

若者の目から見たトーマス・マンの日常は非カリフォルニア的

 ルカーチに触発されて、トーマス・マンの晩年の政治思想を探りたくなったが、思いつく資料のうちでもっとも重要そうな『トーマス・マン日記』は1946年3月分までしかない。このあとの巻は、高価なのでまだ入手できずにいる。

 トーマス・マンの義理の甥、つまりカーチャ夫人の双子の兄の息子のクラウス・プリングスハイム・Jr(1923年生まれ)の書いた手記のペーパーバックが先日手に入った。『Man of the World』(19995年 モザイク・プレス)


 クラウスという名は平凡な名前らしくマン家にもプリングスハイム家にもたくさんいてまぎらわしい。父親の方のクラウスさんはナチスから逃れ日本に来ていた高名な指揮者である。息子のクラウス・Jrとともに、1946年10月に苦しいい生活を送っていた日本を出て、米国カリフォルニアに向かう。身元引受人はトーマス・マンである。

 10月末にシアトルに着き、バスを乗り継いで、トーマス・マンの住んでいたカリフォルニア州パシフィック・パリセーズ(サンタモニカの近く)を目指す。

 広壮な住宅を建てて住んでいたトーマス・マンだが、台所事情は苦しかったらしい。印税5万ドルの手取り分が半分でそれをほとんど住宅の維持に費やしていた。クラウス・Jrは身元引受人のトーマス・マンの銀行口座残高と入金予定まで、入国書類を見て知っていた。
 
 マンは住宅だけでなく身仕舞いにも気を使っていた、ベッドルーム以外では365日ネクタイをしていたとクラウス・Jrは書いている。来客も多かったが、父親に似て生真面目な性格だったのだろう。

 通常マンぐらいの生活を送るなら、午餐や夕食にはワインを飲むのが普通だろう。クラウス・Jrもカーチャ夫人に頼まれて、ワインを買ってくることがあった。気を使って「いくらのワインにするか」をきくと1ドル強のワインをといわれたらしい。カーチャ夫人は、一人で家政を受け持ち、買い出しもしたらしいが、クラウス・Jrに運転を教え、アッシー君をやらせたらしい。マンはもちろん運転などしない。運転手がいるのが当然という考えなのだろう。

 マンは、時計のような規則正しい生活を送っていた。これは有名な話だが、改めて、若者の目から見た記述を見ると、可笑しい。

 朝は8時に起きる。ずれても2・3分のちがい。

 9時まで時間をかけて身仕舞いをする。

 9時に朝食。トースト、シリアル、卵、ジャム、バター、紅茶またはコーヒーそしてオレンジジュース。ロサンゼルス・タイムス紙を同時に読む。

 9時40分。じゃ、仕事するよと書斎に向かう。書斎にはこの間誰も入らない。(ということはその前にメイドが掃除はしておくのだろう。)

 11時15分。イタリアン・ベルモットに卵黄を混ぜた飲み物を、クラウス・Jrがそっと書斎に届ける。マンは書斎机ではなく、ソファの端に座り、書物用の板(60センチくらい)を膝に載せ、黄色のリーガルパッドにモンブラン万年筆で、しきりに書きものをしている。
 語句の手直し以外、ほとんど書き直しをしなかったマンだが、そのかわり極端な遅筆。一日(といっても午前中半日だが)に1ページしか書かない。

 1時半、散歩に行く。余計な会話はしたくないと、犬を連れて、徒歩で歩きに行く。たいていは夫人が車で追いかけ、歩き疲れたマンを連れ帰ってくる。

 2時15分。午餐を告げるゴングが鳴らされる。来客があればワインが出るが、それ以外は簡素な食事。午餐のあとは神聖な煙草の時間である。

 このあと、書斎で読書と全世界から届く手紙の処理。マンは筆まめだった。
 
 5時にお茶。人に(依頼されて)会うのはこの時間。

 7時45分。ディナーの時間。家族・親族間で猛烈な勢いで議論をしながらの食事である。

 ディナーのあとは音楽の時間。Hi-Fiセットを手に入れたばかりのマンは、ゆっくりと音楽を楽しむ。「小説家でなかったら、私は作曲家になっていただろう。セザール・フランクみたいな!」とクラウス・Jrに語ったことがあるらしい。

 もちろん、外出することもあった。

 このあと、チャップリンに招かれて、ディズニーのスタジオ(借り切り)で、多くのスターと「Monsieur Verdoux」(「殺人狂時代」)の試写を見たという記述が続く。(115ページ)

 なかなか、赤狩りの記述にたどり着かないが、もう少し頑張ってみます。それにしても、『トーマス・マン日記』安く手に入らないかな? もちろん古本で。

2017年1月19日木曜日

冬休みの宿題 読書感想文『ロマンの魔術師』(その2) 付録『戯作三昧』つき

 ルカーチの『ロマンの魔術師』を読み続ける。2番めの「太閤殿下」は読み飛ばす。1と論旨は同じかと。

 3番目の論文は「現代芸術の悲劇」で80ページ近い。長い。

78ページ。「トーマス・マンの発展のおよその足どりは、ゲーテのそれと興味ある並行性と、同時に対照性を見せている。」

 ゲーテはフランス革命を経験した、そしてマンはもちろんナチズムと連合国との抗争をそして共産主義の台頭も体験した。ルカーチはゲーテがその経験を活かして成長したのに対し、マンは体験を活かしきれず中途半端な状態を続けざるを得なかったと言っている。


 90ページ。「ヨゼフの教育とは、まさにこういう態度の克服なのである。」
 こういう態度とは、ドイツ国民にもある独善性のことと思う。そしてそれを「教育」するのは、ヨゼフに対してはエジプトなのだが、エジプト自体がその当時、健全な状態ではなく、「教育」は不十分に終わる。

 これは、亡命してきたマンに対する、米国の状態に通じるような気がした。ナチズムを倒し、日本を倒しても、共産主義の「脅威」をも倒すまでは、米国人は「教育」ができない。

 共産全体主義のソビエトを倒しても、他の共産主義国は残っているし、新たにISの「テロ集団」も倒さなければならない。米国はいつまでも、亡命民そして自国民の「教育」に苦慮する。が、これはあとの話だ。

 ともかく、論文執筆当時のルカーチにとってはトーマス・マンの態度は歯がゆいが、本人の状況を考えると同情の余地が十分ある、と考えたのではないか。
 このあと、4番目の論文は未完の小説「詐欺師フェーリクス・クルル」に関するものだが、ここでなんらかの思想的発展を、ルカーチが認めてくれるかが、興味深い。

(i読書を使用中のスクリーンショットです)


 ここまで読んで夜中になった。花粉症のかかりはじめで、体にアレルギー性の発疹がでていて、かゆい。眠れないので、導眠剤として、青空文庫を利用する。iOSのアプリで「青空文庫 i読書」というのがある。これで、「日替わりランダム100」という機能(上記のスクリーンショットご参考)を使って、なにか読むというのが今のお気に入り。

 今回は芥川の「戯作三昧」を推薦してきたので、読んでみた。滝沢馬琴が南総里見八犬伝を書いているときの挿話で、非常に面白いし、創作の醍醐味も伝わってくる。創作の苦しさもだが。
 八犬伝も読みたくなるが、我慢しないとここにもドロ沼が口を開けている。くわばらくわばら。

 よく寝られたので、今朝は花粉症の具合はかなり良い\(^o^)/

2017年1月18日水曜日

ルカーチ『ロマンの魔術師』の読書感想文(その1)



 冬休みの読書感想文です。今年はルカーチさんの『ロマンの魔術師』にします。トーマス・マンに関する論文集だそうです。(片岡啓治訳、1971年、立風書房)

 序文でルカーチは2つの論文と言っているが、出版時に2冊にまとめたことがあるのでそう言っているだけ。実際には5つの論文が掲載されている。序文と訳者解説をひっくり返しているうちにわかった。ややこしいことだ。まず第1番目の論文「市民を求めて」に関してです。

 トーマス・マンの70歳誕生日(1945年!)を記念してこれは書かれた。トーマス・マンはかならずしもルカーチが好きとは言えなかったようだが、認めては居たらしい。(序文による)

 12ページに(トーマス・マンは)「ドイツ市民階級のなかでも最良の、しかも目の前にみることのできる象徴である」と書いてあります。象徴という意味深長なことを書いていますが、トーマス・マンの貴族性を軽く揶揄しながらも、市民としてふるまおうとする態度や行動(特に亡命中の)を評価していると思われます。

 54ページ以降。「フランス人は、ブルジョワに対比してシトワイヤンといい、ロシア人はグラジダニンというのに、ドイツ語にはそれにあたる言葉がない。」とあります。
 日本語ではどうか? 「市民」という言葉には深い意味付がまだされていないような気がします。自発的な「革命」を経験していないせいか?
 
 60ページ。「彼は現在でもまだ市民を求めている。...自分の魂のなかに。」 つまり絶えざる追求が必要だし、トーマス・マンならそうするだろうと注文を付けている。
 トーマス・マンはその15年後、85歳でスイスで亡くなるのだが、その時点でのルカーチの評価も調べてみたいと思います。

 特に1946年の赤狩りに時代をトーマス・マンはどうくぐり抜けたのか、結局米国の生活を続けられなかったのはなぜか、またこの苦しい時代を通じて書き続けられたのは何故かなどがなどがテーマとなりそう。

2017年1月17日火曜日

ウディ・アレンの「自伝映画」を観て考えたり、ルカーチ本を読み始めたり

 昨日の命題
(1)何を目的にウディ・アレンは映画を作っているのか。
(2)ユダヤ人であることとそれはどう関係するか?
(3)ベスト作品を3つ選べ。出演俳優と、作品評価の関係は?

の一応の答え。

(1)映画によって違う。(あたりまえ!) 一部の映画監督は一貫したテーマを追求するだろうが、ウディ・アレンはそうではない。映画ごとに異なるテーマを述べている。

(2)直接はない。しかし、様々なテーマのもとに作られた映画の底流にながれる哀愁感や感傷性に彼の出自が影響していることはもちろんだ。たとえば、トランプ支持者ならウディ・アレンの映画は見ようともしないだろう。また、テロの横行する世界を悲しんでいることは間違いない。

(3)マンハッタン、ミッドナイト・イン・パリ、映画と恋とウディ・アレン。
ただし、このベストスリーは今後多くの作品を観ていけば変わること間違い無し。出演女優と良好な関係を保つことが作品評価に大きく変わる(^_-)

 なにしろ作品が多すぎて、なかなか観きれない。なんとか頑張ります。

 アシモフ自伝にウディー・アレンのことが書いてある(『アシモフ自伝2(下)』 早川書房、1985年 261ページ)。1972年の12月にアレンから連絡があり、翌年封切りの映画『スリーパー』の監修をしてくれと頼まれたが、会って意見をいうだけでお茶を濁したそうだ。
 なお、アレンは、アシモフ高校(卒業校がこのように改名!)の後輩だった。
 この節のソースはこちらですm(_ _)m

 昨夕、この本が届いた。



 3つエッセイが収められている。フェーリクス・クルルの分はトーマス・マン全集別巻で読んだので残り2つ。ルカーチがトーマス・マンの「俗物性」をどう弁護するのか気になります。

 ますます忙しくなるが、忙しさを克服する方法をかんがえないといけないな。

2017年1月13日金曜日

『獄中記』による勉強が楽しい、まだ読み終えてないが

 
(ベランダで元気なのはシャコバサボテン)

 佐藤優『獄中記』を読み進める。

 9月14日の記述
 「小泉政権の誕生以降、強く感じ、今回、僕自身が当事者になって体験したことだが、日本人(政治エリート、学術エリートの大多数を含め)は、いつの間にか物事の論理や構造や意味をよく理解できない人たちになってしまった。」

 文意には同意する。ただし、「理解できない」理由については、佐藤優氏と私は意見が違う。彼は自分は宗教的人間だといっているとおり、物事の論理や構造を先験的に理解し、信ずるところに従って解決しようとする。絶対に正しいものが何処かにあり、それに従うのが本来あるべきことと考える。もちろん、政略というものの重要性も認めた上で。

 私は。「理解できない」理由は、科学的・技術的訓練の不足だと思っている。そして、初めから正しいものは存在せず、仮説検証の(科学的)プロセスをたどって、いま「より正しい」ものに近づくべきだと思っている。

 9月20日の記述
 「持続的経済成長がハイエク型新自由主義モデルで国民全体が裨益するための大前提であるのだが...この大前提が満たされなければ、今後3年で日本社会内の貧富の差がかつてなく拡大する。」

 持続的経済成長、別の言い方をすると2%の経済成長は、その後10年程度の経過を見ると、全く無理とわかってしまった。事態の打開策として多民族国家への道を佐藤優氏は示しているが、9.11テロ後そしてトランプ以降の世界は、まったくこれに反した動きを示した。

 死んだと『獄中記』に書かれた社会主義を再度作り直すのが道の一つと私は考えている。ただし佐藤氏も言っているような共産全体主義に帰結するようなすでに破綻した社会主義ではなく、英国の初期の社会主義的ななにかが。ここは、これから考えをめぐらしたい。
 
 このあとの記述で佐藤優氏は、カレル・チャペックやルカーチの紹介もしている。

 了解!ということで、今後読む本のなかにチャペックやルカーチを入れたい。
 ルカーチについてはトーマス・マン(のフェーリクス・クルルについて)の論文で、明快な論旨に私はしびれたことがあるが、佐藤氏は文章が難解だと書いている。先程書いた、佐藤氏と私の立場のちがいが原因だろう。

 歯医者に行く時間なので、この続きはまた明日(^_-)

 

2016年11月26日土曜日

やはり推測は的中。しかもど真ん中でした。

 昨日に引き続き、プリングスハイム教授の素性を調べる。まったく偶然に先日購入した『Man of the World』を、家人の買い物のおつきあいで、ホームセンター駐車中の車のなかで拾い読みする。この自伝の著者はトーマス・マン夫人の甥のKlaus H. Pringsheimである。



 索引をみると、当然、何人かのPringsheim家の人々がリストされている。その中に「Pringdheim, Prof. Peter」という方がいる。Prof.がキーワードだ!
 118ページに、トーマス・マン亡命先のカリフォルニアで、Peter, Katja(トーマス・マン夫人), Klaus(自伝の著者の父)の三兄弟が25年ぶりに集まったと書いてある。そしてPeterおじさんはシカゴ大学の物理学の教授であるとも書いてある。

 このひとがプリングスハイム教授にちがいない。トーマス・マン夫妻と同様に、ナチスの手を逃れて米国に亡命したのであろう。

 名前が「Peter Pringsheim」とわかったので、あとはググるだけで幾つかのページが出てきた。これとかこれ。坊主頭は寺田寅彦の記述通り。若いとき(寺田寅彦があったのは1909年)からこうだったのですね。

 おまけだが、クラウス(父)プリングスハイムは日本で戦中まで高名な指揮者として活躍。戦争末期に米国へ出国。その息子の一人(ハンス・プリングスハイム)が戦後日本で外人タレントとして「連想ゲーム」などで活躍したという。
 
 一方で、『二億電子ボルト』も読み進める。ナチスは1933年に選挙で勝つ。ドイツ国民はヒトラーが選挙中におこなった極端に過激な暴言は、責任ある立場に付けば和らげられるだろうと期待したのだ。しかし、その甘い期待は完全に裏切られる。約束された経済的発展はもたらされないまま、ユダヤ系の人々への迫害がきびしくなるばかりとなった。

 このあたりは、現在の世界の指導者の今後の行動をうらなう上で、見逃せない歴史事実と思う。


 外国籍でその迫害を逃れていたリーゼ・マイトナーも、その母国オーストリアがドイツに併合されてしまい、亡命を余儀なくされる。しかし亡命生活の中で、中性子による核分裂反応の論文を書く。それは原爆の製造と使用に結果として利用されてしまう。

2016年11月4日金曜日

書かれなかった作品を想像し鑑賞する楽しみ

 ある作家と付き合う(作品をたくさん読む)と、構想だけで終わったらしいが、この作品をおなくなりになる前に書いていただいていたら良かったなあと思うことがいくつかあります。

 たとえばトーマス・マンの『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』の続き。
 たとえば、植草甚一の『ニューヨークの夏目漱石』。
 たとえば、辻邦生の『浮舟(実朝の幻の船)』など。


 自分の著作へのコメントが大好きなトーマス・マンは「『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』の一章への注解」でこう述べています。(新潮社版全集 七巻 561ページ)
 「この章をエピソードの一つとして含む本をわたくしはもう四十年以上も前に書きはじめた...執筆を中断し...
ようやく最近になって、その続きの執筆に取りかかった次第で、時間と力が及ぶならば、たぶん完成するだろう。...
(主人公は)リスボンへ向う列車中にあって、その旅を始めるところである。話はそこからさらに南アメリカへ、アルゼンチンへ、ブエノス・アイレスへと彼とともに進捗することになる。」

 結局、リスボンから豪華客船に乗船する直前で、公刊された物語は終わっている。私はこのさきを読みたくてたまらない。貴族の替え玉で旅行をするのだが、パリでの貴族との打ち合わせでは、北アメリカにも行くし、日本を含むアジアも予定されていた。実はクルルのモデルは実在するが、彼は実際に日本にも来たという話がある。
 スイスに行って、マンの未完原稿や資料をチェックすれば概要くらいは掴めそうだ。調べにいきたいがその前にドイツ語を勉強しないといけない。

 仕方なく想像や現在手に入る資料などで、後半の物語を推測しなければならない。どこかで、ばれて投獄もされてそこでこの『告白』を執筆しているという設定なので、当時の獄中生活までも資料をさがして推測する必要がある。ある意味では楽しい作業(お遊び?)だが、いつの日にこれができるかはわからない。でも始めないと話にならない。

 同じように、植草甚一先生の著書を読み漁っていると、(『植草甚一読本』)先生は晩年に行ったニューヨークがえらく気に入って、漱石が倫敦に行って神経衰弱になったと言われたが、紐育に行っていれば、楽しく留学生活を送れたろう、その当時の紐育の資料(例えば、雑貨屋のカタログ!?)を集めたので、ぜひこのテーマで書きたいとお書きになっている。(実際にはニューヨーク行きは当時の文部省が許さなかっただろう。)
 これも、書いていただきたかった。明治・大正期の東京の下町の雰囲気も知り、ニューヨークもわかった植草甚一センセイなら絶対面白かっただろう。

 辻邦生夫人の『辻邦生のために』には「「浮舟」の構想をめぐって」という一章がある。実朝を主人公としたお話らしい。他に藤原定家や後鳥羽院の物語も考えていたとか。

 非力な私が、こういった物語を書くわけにはいかない。AIを使って作品を書かせる試みはできないだろうか?
 ともかく、これらをテーマとして考え、調べ、駄文を書くことも読書にまつわる楽しみの一つである。

 ところで、新しい市立図書館、建物は実に立派で設備もいいのだが、蔵書の質が私にはまだ向いていない。『トーマス・マン全集』や『トーマス・マン日記』は揃っていないので、どんどんリクエストしてあわよくば購入して貰うつもりです(^^)

2016年10月23日日曜日

トーマス・マン先生の日常

トーマス・マン先生の日常

『トーマス・マンとドイツの時代』(小塩節著 この本いいですね(^O^) )12ページより
          

「たとえば、毎日、朝のコーヒーのあとは身づくろいを正し、正確に九時から一時まで仕事部屋に入って、一心不乱に執筆をした。休暇中も亡命中も、終生これを怠らなかった。…午後は読書、調査、散歩。夜は観劇や音楽会、社交生活がある。毎日、膨大な量の来信に丁寧な返事をした。…」

 身づくろいを正す、とか、膨大な量の…返事、といったところがエライ。でも奥さんが郵便の整理とか返信を手伝っていたし車の運転もしてくれた、要するに秘書的な役割をしてくれたし、本当の秘書も使用人も何人もいたし、と小人(私)は足を引っ張りたくはなる。オレなんか布団畳んで朝飯作って掃除するルーティンがあるんだから😓

 しかし彼の生活に憧れ、その仕事ぶりをすこしでも真似をしたいと、ずっと思っている私。最近は少し近づいたかと誤解的自惚れ中。

2015年12月19日土曜日

詐欺師フェーリクス・クルル、リーヴィット、そしてトーマス・マンの乗ったOcean Liners

手元の書籍を調べてみました。間違いがあったらお知らせくださいm(_ _)m

(1)「詐欺師フェーリクス・クルル」
「己の乗る「キャプ・アルコナ号」が八月一五日にリスボンを出帆することはわかっていた。」(新潮社版「トーマス・マン全集」七巻445ページ高橋義孝訳)
http://bit.ly/1VEhnCs

#「キャプ・アルコナ号」は1927年から就航なのだが、本来の物語の年代(多分19世紀末〜20世紀初頭)から考えると、こちらのほうが妥当なのかも。1911年就航のカップ・フィニステレ(後の大洋丸)。
どちらにせよドイツ商船隊は盛んだったらしい。

(2)リーヴィット(天文学者)
1896年 不明な船 2年間ヨーロッパへ。

#卒業旅行?(「リーヴィット」 ジョージ・ジョンソン 槇原凛訳 WAVE出版 44ページ)

1903年1月 ドミニオンライン社の郵便蒸気船コモンウェルス号...イタリアか南フランスへ (同書 47ページ)

#これかな?ボストンの寒さを避けたのか? http://bit.ly/22f2NW7

1903年夏 イベルニア号でイギリス諸島?へ (同書 50ページ)

#コナン・ドイル「失われた世界」でもイベルニア号は出てくるが同名の船や軍艦はたくさんあるようです。 http://bit.ly/1KweTEe

追記 リーヴィットとは対照的な天文学者セシリア・ペインは1923年にカロニア号で英国から渡米した。
    http://bit.ly/1Nzkubl

(3)トーマス・マン(と「ドン・キホーテ」^^;)
1934年5月19日 ヴォーレンダム号 #ではじめて米国へ。苦しい亡命生活のなか。(「トーマス・マン日記1933−1934」 紀伊國屋書店 441ページ)

#これはhttp://bit.ly/1KwfNkeですね。

(4)トーマス・マンはこの後も何回も海をわたっている。
#まだ纏めてませんm(__)m
  

2011年6月24日金曜日

小塩節先生の「トーマス・マンとドイツの時代」を読んで



190ページを読んではっとしました。
「トーマス・マン文庫」(ここも行ってみたいところだが、私のドイツ語能力では...)にいれてもらい、過去のメモを調べていたら、1900年代のはじめの4-50センチの大きな束があり、付箋の一つに「銀河系宇宙」と書いてあったそうです。
どんな記事やメモがファイリングされていたのかは記述がありませんでしたが、これはぜひ見てみたいです。
後に書かれた「フェーリクス・クルル」の後半部に、この資料で得られた知識が使われたのでしょう。もっとも1900年代前半には「銀河系宇宙」に関する人類の知識は大幅に拡大されたので、この資料だけでなく、常にトーマス・マンはこの分野の新しい発見の記述を追い求めたのだろうと思います。苦しい亡命生活のなかでも。
何事かを成し遂げる人は、どんな悪い環境下でも、知的生活を続けるのでしょうね。それがまた心の支えともなるのでしょう。

2011年6月20日月曜日

トーマス・マンとジーンズ卿の宇宙論

書簡集(新潮社版全集12巻)をめくっていたら、538ページにトーマス・マンは「ジーンズの本は以前夢中になって読んだことがあります。」と書いている。1952年にカリフォルニアからスイスの知人に書いた手紙の一節である。年代から見てこれはJ.ジーンズ卿の宇宙論の通俗本であろう。もちろんトーマス・マンのことだから本気になったら論文まで読んだだろうが。
1929年のリタイア以降ジーンズはいくつかの一般向けの紹介本を書いている。この材料をもとにして「フェーリクス・クルル」の食堂車のなかのK教授のお話を書いたのだろう。当時F.ホイルとともにジーンズも定常宇宙論を支持していたと思うがもちろんこれは「フェーリクス・クルル」にははっきりとは反映されていない。