— 隠居老人こと福地博文 (@hfukuchi) 2017年7月23日
脳内の個人の記憶はきっと微妙な生理作用の上に成り立っている。そのあやふやさと永続性にどう立ち向かうか。
極端な解決法はSFによくある、記憶も含めた人格全体を外部記憶に移す方法。実は、日記を書いたりブログを書いたり写真を撮ったりするのは、すべて無意識にこの解決法を試行しているといってよかろう。芸術そのものがこのためにあると言う見方もできよう。
家族や社会という装置にも同じ見かたができるだろう。
音楽療法というのが有るらしい。食べ物でもできるのかも。好きな本をよむのもおなじかも。ビデオもそうかしらと思うが、ちょっと違う。イメージと記憶との関係は微妙でまだよく(私には)わからない。このあたり解明が必要だ。
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