今日も『荷風と東京『斷腸亭日乗』私註』(川本三郎)の続きを読む。
下町の話は少しとばして、「ランティエの経済生活」から再開。
264頁。
ランティエとは金利生活者のことらしい。戦前の荷風は幸運なランティエだったと、石川淳が「敗荷落日」に書いているそうだし、「日乗」には大正13年の所得金額は4184圓だと税務署から通知されたと書いてあるようだ……
ここまで、書いてきて、はたと思い当たり、物置部屋で石川淳の『夷齋虛實』(文藝春秋)を引っ張り出す。もしやという感じだったのだが、その中に「敗荷落日」が収められているのを発見。昔古本で買ったときに、目次だけには目を通したのだろう。持つべきものは記憶力。あやふやな記憶でも脳の中に残っていて、期せずして浮かび上がるのがうれしい。快感を感じる。この本には森鷗外に関する記述も二段組で100頁以上ある。忘れていた貯金が見つかったような気持ち。
……
267頁。
荷風は金銭的に「しっかり」していた。でも戦後のインフレのため、金銭に対する執着が増した。
268頁。
株も買うし生活には困らないが絶対に「贅沢」はしない。とくに食べ物には……
272頁。
昭和21年からは売文で稼がなくてはと身構える。大正期の円本ブームのような出版好況は、戦後少しはあったろう。
276頁。
ここからは「墓地探検」の話。昭和10年の句、「行くところ無き身の春や墓詣」。
285頁。
昔からガイドブックがあったそうだ。江戸時代の掃苔家、老樹軒の『江戸名家墓所一覧』。昭和15年、藤浪和子『東京掃苔録』。
285頁。
探墓会というのもあり、会誌もあった。
288頁。
鷗外の墓が向島の弘福寺から三鷹の禅林寺に移った。荷風は昭和18年10月27日にお参りに行く。そもそも荷風の探墓の趣味は鷗外から受け継いだ。
***
石川淳は荷風の晩年の随筆にはかなり辛い点をつけている。ランティエでないと良い随筆は書けない。賣文はやはり難しい。
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