『トーマス・マン日記』を読み続けた。
1950年7月12日。
Kの退院で安心したのだろう、やっと良く眠れた。手紙を読んだり、手直し程度の執筆。
K、息子ゴー口と昼食。例のボーイが給仕してくれた。フランツェルと呼んでみる。(フランツちゃんというところかしら?)
ディナーの前に会ったときは、彼は冷たい態度。また落ち込む。さっきチップを5フランくらい渡せばよかった?
これはまるで少年の恋物語ではないか。わざとそう書いているのか。
一方、よく考えると『詐欺師フェーリクス・クルル』(第3部)の材料となったと思う。クルルとイギリスの老貴族キルマノックス卿とのやりとりに似ている。第3部は新潮社版「トーマス・マン全集 第7巻』の後記によると、1951年1月8日以降に書かれたという事になっている。
7月13日。
クノップの精算書に悩んでいることをKにうちあける。誤解で、本来の金額は数千ドルだろう、ともかく悩んでないで問い合わせなさいと言われたのだろう。すぐ、安心している。やはりKが母親でマンは子供。
そうなると、また給仕の一挙一動に関心が向く。
7月16日。
チューリヒからジルス・マリーアへ移動。フランツとの別れはつらかった。
7月17日。
ザンクト・モーリツに移る。
7月18日。
アメリカの情勢と自分たちの将来についてK、エーリカと話し合う。再亡命すべきなのか。ゴーロはアメリカに戻るべきでないと言ったとエーリカが。アメリカに戻ったら再び出国することはできないだろうか。ハーパーズ書店から『私が生きた時代』が出版されるかどうかで判断しよう。1933年アローザの苦い思い出がよみがえる。
7月21日。
ヘッセ邸でお茶。ヘッセは歳をとり、顔がほっそりしている。
1946年のヘッセ 出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) |
7月24日。
Kの67歳の誕生日。ヘッセ夫妻も呼び、お祝い。
7月26日。
ハーパーズから『私が生きた時代』の校正刷りが届いた。朝鮮に関する小さな変更のみだった。
このため、アメリカに戻る決心がついただろう。それが正しかったかどうかは今になってもわからない。
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