出口裕弘『辰野隆 日仏の円形広場』(新潮社)を、昨日夕方から読み始め、今日の午後読み終えた。出口裕弘の辰野隆への敬意に溢れた本。面白い。
明治維新で幕府側を応援したフランスが、新政府を応援した英国などの日本への影響下で、失った失地を文化的な面で回復する過程を、東大仏文科の歴史の中の辰野隆の評伝として描くという新機軸の展開の一冊。あまり正確でない引用を交えて読書の印象を紹介してみる。
明治初期の親仏派は、たとえば大山巌、西園寺公望、栗本鋤雲、成島柳北など。その後は、たくさんいるのだが、永井荷風や山内義雄など。
辰野隆は荷風の作品はきちんと読んでいるが、人間としては嫌いだった。(こういう人は多いだろう。)
辰野隆は仏文学の泰斗や作家をめざすというより、30年間ひたすらフランスの文学を読み続けて、「一流の読者」を目指したという。父辰野金吾の遺産があり、その死後すぐにフランスに留学したが、贅沢な生活を送れたようだ。もちろん、読書量は凄い。かれは、留学前にもどんどん雑誌や書籍を取り寄せて、外国文学の紹介をたっぷりした。「信天翁の眼玉」というフランス文学通信の連載があるそうだ。(読んでみたい。でも国会図書館DCで非公開。)
東大仏文科もそのころ、だんだん入学者が増えてくる。渡辺一夫もその一人だが、フランス語を精密に読んでいくやり方は、辰野隆のとは違っている。
江川太郎左衛門の子孫の久子と結婚。博士論文は「ボオドレエル研究序説」はきちんとした論文だが、その後の著述は洒脱な物が多い。
留学で一緒だったのが山田珠樹(森鷗外の長女茉莉の夫だ)で、二人でやりたい放題。大正10年(1921年)6月から、大正12年3月までの留学。この時期、円が強かった。なので専門など掲げずにすみ、「すごい強気の」留学記も書くことが出来たという。
大正14年、仏文科には23歳の小林秀雄が入学。本を貸すとひどく汚して返してよこす、講義中の辰野隆に金を貸せと迫る(10円貸した)など手がつけられないが、その才能を愛して可愛がる。
その後、中村真一郎が入学してくるが、彼は仏文科の中で弟子にしたかったのだろう、講師に任命する。中村はその後助教授への誘いは断り、作家への道を歩むことになる。
このあたりで、東大仏文科と「文学の実践」との美しい蜜月は終わりをつげ、真面目なフランス文学研究のみが幅を効かせるようになることになったらしい。「豪傑」の時代は終わりを告げた。
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