昨夜はふと思いついて、南方熊楠について探ってみた。著書は青空文庫に収まったものくらいしか読んでいない。まず、Kindleに相談したら、昔「少年ジャンプ」に連載された漫画『てんぎゃん』がUnlimitedで読める。面白い。そして少年ジャンプすごいぞ。この連載をつづけていたらもっとすごかったが。不評でやめたらしい、残念だったコト。
他にないのか。Amazonで中沢新一先生の著書を見る。いろいろありますね。『森のバロック』が安いし、内容も面白そう。
そして事典も2種類見つけた。高いのと安いの。安い方はかってもいいでしょうか?大蔵大臣様。
ともかくすぐには手に入る物はないなと諦めかけたが、寝床でよく考えた。ジャパン・ナレッジ(JK、女子高生ではありませぬ)というサービスに加入していたが、ここはこの出番。検索してみた。するとなんと!!!、東洋文庫の南方熊楠の著作本が5冊もあり、全文、画像だが、読める。
早速著作集の第1巻、「履歴書」の項を読みました。すごく長い履歴書でときどきシモネタも入る(^^)が、まことに面白い。ばあやにそろそろ寝なさいとたしなめられながら、3時までかかって全部読んだ。息子様にもらったiPad Airが役に立った。ナイトモードになって目にも優しい😍
熊楠にもiPadをプレゼント🎁したいなあ。喜ぶと思います。
幼時、『和漢三才図会』(これもJKの東洋文庫で読めますよ、漢文からの翻訳)を他人の家で見せてもらい、覚えたものを自宅で書き写す方法で、数年かかって全巻書き写してしまったというから、タダモノではない。
自分には経済的才能はないとして、実は時間がもったいないからだが、実地を基本とした勉学に勤しむ。日本や米国で大学にも行くが、図書館に通うのが目的で、先生のいうことは聞かないし、だいいち教室にはいかない。論文は書くし、真の学者たちとの交流をして、彼の汚い格好や傲慢なタイドを容認する学者たちには大受け。
死ぬまで貧乏だったが研究や著述は人一倍おこなった。40歳で結婚するまで女性をしらなかったと履歴書にも書いてある。(男性はどうか?は突っ込みどころか?)
そんなことを履歴書に書くKYなヒト他にいるかしらん。
脳の病気だったと言う説もあるが、それも含めてまず中沢新一先生に教えを請うべく、『森のバロック』買ってみます。後報をまて。今日は眠いぞ。
2016年10月30日日曜日
2016年10月28日金曜日
読みやすく文章をかくヒケツを教わろう
村上春樹『職業としての小説家』2016年 新潮文庫版 51ページ
最初の小説…なかなかうまくかけない。
「原稿用紙と万年筆をとりあえず放棄...
押し入れにしまっていたオリベッティの英文タイプライターを持ち出しました。それで小説の出だしを、試しに英語で書いてみることにしたのです。...
限られた数の単語を使って、限られた数の構文で文章を書くしかありません。センテンスも当然短いものになります。…
内容をできるだけシンプルな言葉で言い換え、意図をわかりやすくパラフレーズし、...
英文タイプライターをまた押し入れに戻し、もう一度原稿用紙と万年筆を引っ張り出し...英語で書き上げた一章ぶんくらいの文章を、日本語に「翻訳」していきました。...」
こうして平易な自分の文体をみつけ、小説を書き続ける。このお話は以前にも目にしたことがありますが、あらためて読んでみると、なるほどと思わせます。
小説に限らず、報告書・仕様書・説明書の文章にせよ論文にせよ「文学」臭を排除するには、良いアイディアかもしれません。英語が上手でないほうが効果ありそうです(^^)
I will do the same way of writing. 同じようなやり方でブログも書いてみよう。
2016年10月27日木曜日
作家としての出発はたいへんだった、らしい
三笠書房版クローニン全集十五巻『人生の途上にて』の270ページ以降に、クローニンの作家としての出発がほろ苦いユーモアに包まれながら記述されてます。30代なかば、成功したロンドンでの開業医の地位を、十二指腸潰瘍の発病を期に、なげうってスコットランドの片田舎に引っ込み、屋根裏部屋で始めての小説執筆に四苦八苦する。
「私は技巧にたいする自負もなく、文体や表現形式についての知識もなかった。かんたんな叙述のむずかしさに、私はよろめいた。一つの形容詞をさがすのに、何時間もついやした。紙がまるでクモの巣のようにみえるほど、私はなおしになおした。それから、それを破りすてて、またあたらしく書き始めた。...
その後の三カ月間、あのうるわしい夏の間じゅう、ほかの者が楽しく遊んでいるあいだ、私は机に自分をしばりつけたまますごした。」
苦労のすえ夏の終わりには書き上げ、ロンドンの見ず知らずの出版社に郵送する。諦めかけたころ、出版社から出版の前金の50ポンドが届いた\(^o^)/
このブログを書くため、「納戸部屋」から、この本をサルベージしてきた。神保町の小宮山書店のガレージセールで、つまりホコリをかぶったまま3冊500円で、かってきたもの。50年ぐらい前の本だがホコリを払えばまだ十分読める。密林だともっときれいな古本が手に入れられそうだ。でも昔の雰囲気はガレージ本の勝ち。
1950年代、60年代当時は日本でのクローニンのブームだったような気がします。通俗的だという人もいますが、読者に感動を与えるストーリーで、彼の多くの本はすでに戦前から世界的ベストセラーとなり、映画化・テレビ化も多くされました。
クローニン先生は、この記述のあとは、この自伝本で、執筆そのものの苦労はいっさい述べていません。円滑だったのか、苦労話は書きたくなかったのか。おそらく後者でしょう。
Open Libraryでこの本の英語版が無料で借り出して読めます。メールアドレス登録必要。貸出は14日間。
「私は技巧にたいする自負もなく、文体や表現形式についての知識もなかった。かんたんな叙述のむずかしさに、私はよろめいた。一つの形容詞をさがすのに、何時間もついやした。紙がまるでクモの巣のようにみえるほど、私はなおしになおした。それから、それを破りすてて、またあたらしく書き始めた。...
その後の三カ月間、あのうるわしい夏の間じゅう、ほかの者が楽しく遊んでいるあいだ、私は机に自分をしばりつけたまますごした。」
苦労のすえ夏の終わりには書き上げ、ロンドンの見ず知らずの出版社に郵送する。諦めかけたころ、出版社から出版の前金の50ポンドが届いた\(^o^)/
このブログを書くため、「納戸部屋」から、この本をサルベージしてきた。神保町の小宮山書店のガレージセールで、つまりホコリをかぶったまま3冊500円で、かってきたもの。50年ぐらい前の本だがホコリを払えばまだ十分読める。密林だともっときれいな古本が手に入れられそうだ。でも昔の雰囲気はガレージ本の勝ち。
1950年代、60年代当時は日本でのクローニンのブームだったような気がします。通俗的だという人もいますが、読者に感動を与えるストーリーで、彼の多くの本はすでに戦前から世界的ベストセラーとなり、映画化・テレビ化も多くされました。
クローニン先生は、この記述のあとは、この自伝本で、執筆そのものの苦労はいっさい述べていません。円滑だったのか、苦労話は書きたくなかったのか。おそらく後者でしょう。
Open Libraryでこの本の英語版が無料で借り出して読めます。メールアドレス登録必要。貸出は14日間。
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2016年10月26日水曜日
J.J.氏は若い頃の私のアイドルだった
『植草甚一読本』(1975年 晶文社) 307ページ
1970年11月14日の日記のなかの記述。(前日(13日)の日記では夜中の二時から「話の特集」の記事の原稿をかいている。)
「早く目がさめたが、二度めは二時になっていた。図書新聞を何げなく拡げていたら、平岡正明が「雑学」の面白い批評をしてくれていた。三時ころ「話」の来生さんが来る予定。すこし渡すことにする。彼女が来たあとで下北沢まで散歩。八時半に帰ってきて十一時ころから原稿のつづき。…下北沢では白樺で…三冊… コーヒー。…帽子(三八〇〇円)を三〇〇円値切る。...」
「雑学」とは、『ぼくは散歩と雑学が好き』のこと。来生(きすぎ)さんとは雑誌「話の特集」の編集部で植草先生の担当をしていた来生えつこさんのこと。
当時大学生だった私は、「散歩」などを読み、植草先生の生き方にあこがれた。学生運動が下火になり、三島が市ヶ谷で自殺し、今後いかに生きるべきか、みな迷っていた。
植草先生の生き方は、個人として自由でありその自由さが文章にもあらわれていた。年齢も感じさせない。
その後、企業に就職をしようとしたときに、面接官に「趣味は読書とあるが、さいきんどんな本を読んだ?」と聞かれ、植草甚一先生の『知らない本や本屋を捜したり読んだり』です。と答えたが怪訝な顔をされただけだった。真面目そうな面接官がこの本を知っているはずがない。もし、知っていたら、落とされたかもしれない(^O^)
植草先生の本はほとんど全部持っている。また読み直そうと思っている。そしてその自由な生活も少し真似したい。原稿の締切がないのでより幸せかも。
2016年10月25日火曜日
人生の指針となる本は何度も読み返す
池波正太郎先生の「銀座日記」(新潮文庫、1991年)は、十回以上読み返している。もともとは「銀座百点」という楽しいPR誌(銀座の多くの店で無料で手にいれられます\(^o^)/)に連載されたもの。池波先生の連載が読みたくて、この雑誌をもらいに銀座に通ったものだ。その、昭和61年末の記述。
「例年のごとく、十二月の末になると山の上ホテルへ入り、翌年一月の直木賞候補作を読みながら、最後の仕事をすべて終えることにしている。その間に、家では大掃除、種々の手入れなどをすませるのだ。…
私も十二月の下旬だけは、仕事をしても気分的には休暇だ。割合に、のんびりしていられるが、一月元旦から仕事をする。これは例年のならわしである。」
池波先生の日記は年寄りには参考になることが多い。仕事の仕方だけでなく、健康管理、ものの考え方、生き方全般に。だから繰り返してこの文庫本を読んでいる。本体からはがれそうなページもいくつもある。そして、この日記の後半では先生の体力、気力が少しづつ衰えていくのが読み取れて、切なくなる。最後まで読み切ることが難しくなってきた。身につまされるとはこのことか。
年末にホテルにこもって仕事をするのも、最晩年をのぞき先生が毎年やられていた。羨ましい。いつか山の上ホテルに泊まりこんで古本屋街を散策したり仕事をしたりの生活をしてみたい。小遣いをためておいて実行したいです。近いうちにね。
「例年のごとく、十二月の末になると山の上ホテルへ入り、翌年一月の直木賞候補作を読みながら、最後の仕事をすべて終えることにしている。その間に、家では大掃除、種々の手入れなどをすませるのだ。…
私も十二月の下旬だけは、仕事をしても気分的には休暇だ。割合に、のんびりしていられるが、一月元旦から仕事をする。これは例年のならわしである。」
池波先生の日記は年寄りには参考になることが多い。仕事の仕方だけでなく、健康管理、ものの考え方、生き方全般に。だから繰り返してこの文庫本を読んでいる。本体からはがれそうなページもいくつもある。そして、この日記の後半では先生の体力、気力が少しづつ衰えていくのが読み取れて、切なくなる。最後まで読み切ることが難しくなってきた。身につまされるとはこのことか。
年末にホテルにこもって仕事をするのも、最晩年をのぞき先生が毎年やられていた。羨ましい。いつか山の上ホテルに泊まりこんで古本屋街を散策したり仕事をしたりの生活をしてみたい。小遣いをためておいて実行したいです。近いうちにね。
2016年10月24日月曜日
ディック・フランシスは家内工業的に小説を書いた
「私はいまだに年一冊小説を書き、いまだに同じ方法で、つまり、一度に一センテンスずつ、鉛筆でノートに書き、イメージが頭に浮かぶのを待ちながら、それがどこから出てくるのかわからないでいる。」
『女王陛下の騎手』(ディック・フランシス、菊池光訳
1996年 ハヤカワミステリ文庫版 299ページ)
この一節は、1992年前後に書かれたと思われるが、今の編集者が聞いたら卒倒しそうな方法で(書き直しなどほとんどなし!)1960年台からベストセラー推理小説を生産し続けた、英国の往年の名騎手のディック・フランシス。
小説に必要な知識、例えば現代の小型飛行機の操縦の知識は、元パイロットの彼には手に負えず、妻であるメリイが免許を取ってしまうくらいに勉強して、彼に供給する。更に妻メリイはその免許と知識を使って競馬関係者などにサービスするエア・タクシー会社まで設立して経営してしまう。
下の息子(フェリックス)は、親父の晩年には小説を書く手伝いをしていたが、最後には物理学の教師の職を捨てて、フルタイム・ライターになる。彼の小説には親父(ディック)の名前が冠として付いている。やはりよく売れている。
私は会社入社当時の休日の娯楽として競馬をかなり熱心にやったが、そのつながりで、ディック・フランシスの競馬推理小説を読んだ。新刊が出るたびに買い求めて読んだ記憶がある。エンターテインメント性はピカイチ。肩がこらずに、一晩一冊のペースで読める。人間の醜悪な部分はほとんど出てこない。
この「楽しく」読める小説の秘密は、ディック(リチャード)・フランシスが、オープンな態度で家族と一緒に書き進めたことにある。
したがって、彼は「ディック・フランシス」は小説生産者家族の代表名で、自分のことはリチャード・フランシスと呼べと言っていたという。
2016年10月23日日曜日
トーマス・マン先生の日常
トーマス・マン先生の日常
『トーマス・マンとドイツの時代』(小塩節著 この本いいですね(^O^) )12ページより

「たとえば、毎日、朝のコーヒーのあとは身づくろいを正し、正確に九時から一時まで仕事部屋に入って、一心不乱に執筆をした。休暇中も亡命中も、終生これを怠らなかった。…午後は読書、調査、散歩。夜は観劇や音楽会、社交生活がある。毎日、膨大な量の来信に丁寧な返事をした。…」
身づくろいを正す、とか、膨大な量の…返事、といったところがエライ。でも奥さんが郵便の整理とか返信を手伝っていたし車の運転もしてくれた、要するに秘書的な役割をしてくれたし、本当の秘書も使用人も何人もいたし、と小人(私)は足を引っ張りたくはなる。オレなんか布団畳んで朝飯作って掃除するルーティンがあるんだから😓
しかし彼の生活に憧れ、その仕事ぶりをすこしでも真似をしたいと、ずっと思っている私。最近は少し近づいたかと誤解的自惚れ中。
『トーマス・マンとドイツの時代』(小塩節著 この本いいですね(^O^) )12ページより

「たとえば、毎日、朝のコーヒーのあとは身づくろいを正し、正確に九時から一時まで仕事部屋に入って、一心不乱に執筆をした。休暇中も亡命中も、終生これを怠らなかった。…午後は読書、調査、散歩。夜は観劇や音楽会、社交生活がある。毎日、膨大な量の来信に丁寧な返事をした。…」
身づくろいを正す、とか、膨大な量の…返事、といったところがエライ。でも奥さんが郵便の整理とか返信を手伝っていたし車の運転もしてくれた、要するに秘書的な役割をしてくれたし、本当の秘書も使用人も何人もいたし、と小人(私)は足を引っ張りたくはなる。オレなんか布団畳んで朝飯作って掃除するルーティンがあるんだから😓
しかし彼の生活に憧れ、その仕事ぶりをすこしでも真似をしたいと、ずっと思っている私。最近は少し近づいたかと誤解的自惚れ中。
2016年10月22日土曜日
森有正先生の日常
森有正先生の日常
『バビロンの流れのほとりにて』より引用
「今の僕のパリで始まっている生活をちょっと書こう。朝のめざまし時計で五時半に起床し、すぐ洗面をして、コーヒーをわかして、パンと一緒にとる。それから八時半まで、かせぐための東洋医学の仏訳をし、それを終えるとすぐ外出し、前のカフェー・ギマールで三十フランのカフェー・オーレーをもう一度飲む。サン・ジャックとゲーリュサックの角か、リュクサンブールの駅前から、二一か二七か、八一のバスに乗って、パレ・ロワイヤルで降り、リシュリュー街を通って、ビブリオテーク・ナショナルに入る。そして夕方の六時まで仕事(デカルト研究)をする。食事は、近所の小さいカフェーで、サンドウィッチとコーヒーとですませ、時には自分で作ってもって行って、席で食べてしまう。…
午後六時に研究が終ると、またバスに乗ってカルティエ・ラタンに戻り、安いレストランに入るか自分の部屋で自炊する。それから十時半か十一時になるまでは自由な時間で、日本の新聞雑誌に出すものを書いたり、手紙を書いたり、好きな本を読んだりする。その他一週に一度アンスティテュ・パンテオンに仏作文の稽古と、一カ月に二回、ジャコブ街のM夫人(ワール教授の知合い)のところへハイデッガーをドイツ語で読みに通う。以上の仕事の日課は月曜から金曜までの五日間で、土・日は完全に休み、自由に時間を使う。僕はこのシステムを今後少なくも四、五年間、推しすすめてゆかなければならない。…
しかし僕にとって、この生活は限りなく生甲斐があるのだ。僕はこの生活のリズムを固く維持し、数十年を経過したいと思う。青春がすでに過去となった僕に、こういう生活が待っていたことは何というよろこびだろう。」
この境地に達していたのは先生が留学を始めて数年後、そして亡くなるまで20年以上ほぼ似たような生活が続いたと思う。
自分はすでに森先生の亡くなられた年齢をいくつか超えてしまった。改めて、自分をはげまさなくてはならない。
日常シリーズ開始しました。ここの真似です(^o^)
『バビロンの流れのほとりにて』より引用
「今の僕のパリで始まっている生活をちょっと書こう。朝のめざまし時計で五時半に起床し、すぐ洗面をして、コーヒーをわかして、パンと一緒にとる。それから八時半まで、かせぐための東洋医学の仏訳をし、それを終えるとすぐ外出し、前のカフェー・ギマールで三十フランのカフェー・オーレーをもう一度飲む。サン・ジャックとゲーリュサックの角か、リュクサンブールの駅前から、二一か二七か、八一のバスに乗って、パレ・ロワイヤルで降り、リシュリュー街を通って、ビブリオテーク・ナショナルに入る。そして夕方の六時まで仕事(デカルト研究)をする。食事は、近所の小さいカフェーで、サンドウィッチとコーヒーとですませ、時には自分で作ってもって行って、席で食べてしまう。…
午後六時に研究が終ると、またバスに乗ってカルティエ・ラタンに戻り、安いレストランに入るか自分の部屋で自炊する。それから十時半か十一時になるまでは自由な時間で、日本の新聞雑誌に出すものを書いたり、手紙を書いたり、好きな本を読んだりする。その他一週に一度アンスティテュ・パンテオンに仏作文の稽古と、一カ月に二回、ジャコブ街のM夫人(ワール教授の知合い)のところへハイデッガーをドイツ語で読みに通う。以上の仕事の日課は月曜から金曜までの五日間で、土・日は完全に休み、自由に時間を使う。僕はこのシステムを今後少なくも四、五年間、推しすすめてゆかなければならない。…
しかし僕にとって、この生活は限りなく生甲斐があるのだ。僕はこの生活のリズムを固く維持し、数十年を経過したいと思う。青春がすでに過去となった僕に、こういう生活が待っていたことは何というよろこびだろう。」
この境地に達していたのは先生が留学を始めて数年後、そして亡くなるまで20年以上ほぼ似たような生活が続いたと思う。
自分はすでに森先生の亡くなられた年齢をいくつか超えてしまった。改めて、自分をはげまさなくてはならない。
日常シリーズ開始しました。ここの真似です(^o^)
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