城山三郎『どうせ、あちらへは手ぶらで行く』(新潮文庫)の後半を読む。
この本の「日録」部分には、1998年(著者71歳)から2007年1月に著者が78歳で没する直前までのメモが収められている。2000年に奥様の容子さんが68歳で亡くなられるのだが、その後のメモの内容は非常に弱気、体力もみるみる衰える。その後の仕事は容子さんのことを必死に書き綴った『そうか、もう君はいないのか』のみだった。この本は図書館システムで予約した。
日録最後の日、2006年12月17日。163ページ。これが最後のメモ。
「あれこれ苦労し、苦心してここまでやってきた。
もう、これからは楽しく、楽に、を最優先。
他はまァええじゃないか、一回限りの人生、とにかく、楽しく気ままに楽に生きること!」
「鈍々楽(どん・どん・らく)」と頻繁に書かれた手帳を、城山三郎の死後に初めて開く次女の紀子さん。
手帳見開きの左側は予定欄。右側にランダムに書かれたメモがこの本の元になっている。城山三郎の当時の正直な気持ちが書かれている。私の今のブログと違っててらいも強がりも知ったかぶりも書かれていない。遠くない将来にはこの域に達することができるのだろうか。
老いへの怖れも、老いの実態も書かれている。ここは私のブログと同じなのだが、それを書く筆はなんとも明晰。ただのメモ書きとは思えない。
この本はブログの参考にするには切実すぎるかもしれない。でもともかく、人間城山三郎の晩年を知り、自らのこれからの人生の生き方の参考になる。BOOKS HIROの日記本書棚に入れることにする。
*
PASSAGE by ALL REVIEWS内の猫町倶楽部さんの棚から購入したカズオ・イシグロの『クララとお日さま』(早川書房)を読み終えた。AIではなくてAF(人工親友)が主人公とは意表をついている。読んでいるとAFに感情移入してしまう。その意味でAFと人間の区別がない。また、人間のほうはこの未来の時代に人間性を失っているように思える。人間とは何かを考えさせる工夫が他にもたくさん。過酷と思える環境のなかで人間もAFも変わりなく動き回る。
0 件のコメント:
コメントを投稿