「文学論 序」(続き)
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倫敦に住み暮らしたる二年は最も不愉󠄁快の二年なり。余は英國紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を營みたり。倫敦の人口は五百萬と聞く。五百萬粒の油のなかに、一滴の水となって辛うじて露命を繫げるは余が當時の狀態なりといふ事を斷言して憚らず。清らかに洗ひ濯げる白シャツに一點の墨汁を落としたる時、持主は定めて心よからざらん。墨汁に比すべき余が乞食の如き有樣にてヱストミンスターあたりを徘徊して、人工的に煤烟の雲を漲らしつゝある此大都會の空氣の何千立方尺かを二年間に吐呑したるは、英國紳士の為に大いに氣の毒なる心地なり。謹んで紳士の模範を以て目せらるゝ英國人に告ぐ。余は物數奇なる醉興
にて倫敦迄踏み出したるにあらず。個人の意志よりもより大なる意志に支配せられて、氣の毒ながら此歳月を君等の麺麭の恩澤に浴して累々と送りたるのみ、二年の後期滿ちて去るは、春來つて雁北に歸るが如し。滯在の當時君等を手本として萬事君等の意の如くする能はざりしのみならず、今日に至る迄者等が東洋の豎子に豫期したる程の模範的人物となる能はざるを悲しむ。去れど官命なるが故に行きたる者は、自己の意志を以て行きたるにあらず、自己の意志を以てすれば、余は生涯英國の地に一步も吾足を踏み入るゝ事なかるべし。從つて、かくの如く君等の御世話になりたる余は遂󠄂に再び君等の御世話を蒙るの期なかるべし。余は君等の親切心に對して、其親切を感銘する機を再びする能はざるを憾みとす。
歸朝後の三年有半も亦不愉󠄁快の三年有半なら。去れども余は日本の臣民なり。不愉󠄁快なるが故に日本を去るの理由を認め得ず。日本の臣民たる光榮と權利を有する余は、五千萬人中に生息して、少なくとも五千萬分一の光榮と權利を支持せんと欲す。此光榮と權利を五千萬分一以下に切り詰められたる時、余は余が存在を否定し、若しくは余が本國を去るの舉に出づる能はず、寧ろ力の續く限り、之を五千萬分一に囘復せん事を努むべし。是れ余が微小なる意志にあらず、余が意志以上の意志なり。余が意志以上の意志は、余の意志を以て如何ともする能はざるなり。余の意志以上の意志は余に命じて、日本臣民たるの光榮と權利を支持する爲に、如何なる不愉快をも避くるなかれと云ふ。
著者の心情󠄁を容赦なく學術上の作物に冠して其序中に詳敍するは妥當を缺くに似たり。去れど此學術上の作物が、如何に不愉快のうちに胚胎し、如何に不愉快のうちに組織せられ、如何に不愉快のうちに講述󠄁せられて、最後に如何に不愉快のうちに出版せられたるかを思へば、他の學者の著作として毫も重きをなすに足らざるにも關せず、余に取つては是程の仕事を成就したる丈にて多大の滿足なり。讀者にはそこばくの同情󠄁あらん。
英國人は余を目して神經衰弱と云へり。ある日本人は書を本國に致して余を狂氣なりと云へる由。賢明なる人々の言ふ所には偽りなかるべし。たゞ不敏にして、是等の人々に對し感謝の意を表する能はざるを遺憾とするのみ。
歸朝後の余も依然として神經衰弱にして兼󠄁狂人のよしなり。親戚のものすら、之を是認するに似たり。親戚のものすら、之を是認する以上は本人たる余の辯解を費やす餘地なきを知る。たゞ神經衰弱にして狂人なるが爲、「猫」を草し「漾虚集」を出だし、又「鶉籠」を公にするを得たりと思へば、余は此神經衰弱と狂氣とに對して深く感謝の意を表するの至當なるを信ず。
余が身邊の狀況にして變化せざる限りは、余の神經衰弱と狂氣とは命のあらん程永續すべし。永續する以上は幾多の「猫」と、幾多の「漾虚集」と、幾多の「鶉籠」を出版するの希望を有するが爲に、余は長しへに此神經衰弱と狂氣の余を見棄てざるを祈念す。
たゞ此神經衰弱と狂氣とは否應なく余を驅つて創作の方面に向はしむるが故に、向後此「文學論」の如き學理的閑文字を弄するの餘裕を與へざるに至るやも計りがたし。果して然らば此一篇は余が此種の著作に指を染めたる唯一の記念として、價值の乏しきにも關せず、著作者たる余に取つては活版屋を煩はすに足る仕事なるべし。併せて其由を附記す。
明治三十九年十一月
夏目金之助
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出典
『漱石全集 第八巻』大正9年 漱石全集刊行会
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あとがき
倫敦の留学生活と帰国後の教授生活を、散々罵っているが、100パーセントそう思っていたわけではないと感じる。何より、この後の漱石の生き方を決めたのは、この数年間なのだから。ところで、この「文学論」の元になった講義は「英文学概説」というものだったらしい。
「序」はこうして、ブログに掲載することにより、じっくり読むことが出来た。これから本文を「読む」ことにする。そのなかで漱石が倫敦で何を考えたのかを知りたい。「読む」には、「紙の本」と「電子図書」を併用して行きたい。「紙の本」としては、50年前から持っている全集本を使う。「電子図書」としては、国会図書館デジタルコレクションの1937年版を使いたい。Kindle版(有料)は必要そうなら購入を検討する。草稿(下の写真)も見つけたがこれは眺めるだけになるだろう。
どうでもいいあとがき
「序」の日付が「明治三十九年十一月」となっている。この年、私の父が生まれている。と思うと、そんなに昔の話ではないと感じる。
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