2019年5月13日月曜日

OLD REVIEWS試作版第十三弾…『蒹葭堂小傳』緖論(高梨光司)

緖論

德川時代に於ける大阪の文化を代表する者としては、國學に契冲阿闍梨があり、院本に近松門左衞門、浮世草紙に井原西鶴がある。この三人の學間並に文藝上に於ける巧績の偉大なことは、改めていふ迄もないことであって、啻に大阪のみといはず、全日本を席捲し、日本文化史のあらん限り、その名は不朽であるが、大阪にはまた別の意味に於て、一の代表的人物があり、日本はおろか海外にまで、その名を馳せたことを忘れてはならない。

即ち木村蒹葭堂巽齋がその人である。蒹葭堂は、德川中葉の大阪の文化が生んだ一大好事者として、その名は全國に知られ、當時に於ける浪華の名物であった。凡そ安永、天明、寬政、享和にかけて、上は諸侯の大より、下は一庶人に至るまで、苟くも文雅風流の士にして、足一度浪華を過るに於ては蒹葭堂を訪はざるはなかつた。從つて彼の交友は、天下に普ねく、その名は全國に籍甚した。

抑も蒹葭堂とは、如何なる人物であらう。彼の名は、何故に爾く有名となったか。この問に答へるには、種々の方面から觀察せねばならぬ。即ち蒹葭堂の人物、學問、趣味、性行の全部を解剖して始めて分る問題であるが、そは本書の各章の記事に讓るとして、先づ開卷第一に述べて置きたいことは、彼が前後に比類なき趣味の人、好事の人であったといふことである。

凡そ德川二百五十年間には、我大阪からも、種々雜多の學者文人が輩出したが、蒹葭堂程學問趣味の複雜で、多方面であった漢はない。彼は天地のありとあらゆるものを取って、己が趣味好事の對象とした。所謂森羅萬象は、悉く彼にとっては、趣味の世界好事の領域であった。彼が趣味眼に映ずる奇物珍卉蒐集の手は、恰かも千手觀音の如く、四方八方に擴がつて行った。彼の眼の觸るところ、耳の囁くところ、趣味好事の天地は、際涯なく開拓されて行つたのである。

此處に蒹葭堂の本領がある。彼は極めて博學多通であった。一通り和漢の學に通ぜるはいふまでもなく、本草物産の學にも詳しく、詩文の才にも長じ、繪畵も亦巧みであった。一言以て蔽へば、極めて多趣多能の人であった。而も一事一藝に秀づるの點に於ては、到底彼の先輩並に同輩の敵ではなかった。彼はその經學に於ては、その師片山北海にすら遠く及ばぬ。况んや寛政の三博士(精里、栗山、二洲)をや。詩文の才に於ても、賴春水、杏坪兩兄弟には勿論、葛子琴にすら讓るところ多い。繪畵に至っては、その師柳里恭、池大雅の脚下を出づる能はなかった。本草物産の學は、彼の最も得意としたところであったが、それすら中年以後に師事した小野蘭山に比すれば、大關と褌擔ぎの相違がある。

唯、蒹葭堂には、尋常人の所有し得ない趣味性があった。天地間のありとあらゆる物を、悉く取つて以て、己が趣味の熔爐に入れ、これを融化し醇化して、そこに蒹葭堂獨特の趣味の世界を打出した。この藝當は、蒹葭堂ならでは、到底出來ることではない。此處に蒹葭堂の本領があり、その價値がある。而して當年彼が浪華の一名物として、その名天下に喧傅された所以も、亦主としてこの點に存する。

畢竟彼は趣味の權化であった。彼在世の六十七年間は、我大阪は趣味の世界、好事の壇場といってもよかった。近松、西鶴を有することに於て、近代文藝の先驅を誇り、契冲阿闍梨を有することに依って、近世國學の復興を誇る我大阪市民は、またこの德川中葉の一大好事者蒹葭堂を有することを、誇りとしなければならない。

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出典 
『蒹葭堂小傳』 高梨光司著 1926年 高島屋呉服店蒹葭堂會

国会図書館デジタルコレクション
(下の画像も)

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あとがき 
中村真一郎の『木村兼葭堂のサロン』は、蒹葭堂の飄々としながらも精神的に豊かな隠居生活を描き、それを描いた中村真一郎の心も癒やした名作だ。しかし、長いのが玉に瑕で、なかなか人に勧めにくい。この『蒹葭堂小傳』は蒹葭堂のことだけを知るだけなら、手軽でお薦めだと思う。今朝全く偶然『木村兼葭堂のサロン』をめくっていてこの本のあることを発見した。虫の知らせ…

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TwitterTLに流れていた情報、『ケルズの書』がインターネット上で公開されたとのこと。早速眺める。素晴らしい。

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昨日借りてきた、『中国思想のフランス西漸』と、『ふたつのオリンピック』はどちらも面白く、読み始めたらやめられなくなる。家事を行うために、中断せざるを得ないが、かえってそのおかげで。のめり込みを防いで、落ち着いて読んでいけるだろう。

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昨年から参加したALL REVIEWSのオシゴトは、すっかり私の生活の質を改善してくれた。ありがたい限り。


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