蝶の幼虫の記憶は、蛹から成虫へと変態する時、継続するのか?するのだという研究があるらしい。神経系も作り直されるのに記憶が残るとは不思議なのだが…という。でも幼虫を見ていると成虫の特長(色や形)が垣間見えるので、私は記憶が残っても不思議はないと思う。乱暴な意見だ。
「記憶」はいわゆる還元主義では説明しきれないところがあると思う。
昨日読んだ「風車小屋だより」(ドーデ)だが、小学生の時によんだ記憶がある。今回、別の本で再読してドーデが描いたイメージが損なわれたかというとそうではない。アヴィニョン郊外の風車小屋とその周辺の情景は実際の経験のように脳裏に浮かぶ。この情景は人間の頭の中だけで記憶されているのではないのではないか。時空超越記憶?
人間には連想能力がある。(生物にもあるだろうが。)「風車小屋だより」を読んで、ミレイユ・マチユーの「Quand on revient 」を思い出した。故郷アヴィニョンへ凱旋帰郷する人の姿が、貧しかったミレイユの心情と合わせて、みごとに唄われる。
歌詞の最後にはアヴィニョン橋が登場。
するとアヴィニョン橋の上で踊る人々の姿とそれを描いた童謡も思い出される。
いくつかのアヴィニョンのイメージを抱いて、八年前定年後の旅行でアヴィニョンに行った。観光地化された街だが、二晩泊まると街の香りが体に染み付いたような気になる。
旅行ではすっかり忘れていたが、「昆虫記」のファーブルにとって、アヴィニョンは特別な街であった。多くの年月をここで過ごしたはずだ。あのアヴィニョンの街角をファーブルも歩いていたとなると、ファーブル自身の記憶もこちらに乗り移っているかもしれない。(ここ半分以上妄想。)
「昆虫記」10巻と奥本さんのファーブル本をぱらぱら読みながら、昼寝した。海野さんの撮影されたファーブルの机が夢に出てきた。
記憶はどのように保存されるか…わからないが追求してみるのも面白そうだ。
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朝日新聞社に保存していた私の記憶のなかから、次の2冊が発掘され、今朝の広告として蘇った\(^o^)/
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