107頁。2月29日に沼野充義さんと本郷で対談の予定が、寝過ごして少し遅刻なさった。
過去のでき事が、無声映画のように言葉無しで記憶されているということがあるのだろうか。それとも記憶は常に言語を伴うのだろうか。……(遅刻の)夢の中でドアを開ける時、「ドア」という日本語も「Tür」というドイツ語も考えていない気がする。……
多和田さんのような方でも、遅刻の悪夢はご覧になるようだ。ちょっと親近感を覚える。そしてたしかに夢の中ではたまにしか言葉は出てこない。
110頁。
旅はその旅について書き終わるまで完結しない…
これにも深く同意。もっと言うと、旅をしながらこの旅についてどう書こうかといつも考えている。ブログ記事にすることも「書く」ことと言えればだが。
そのような旅をこれから何回出来るのだろうかとも考える。生きている事自体が旅であるとまではまだ達観していない。
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『吾輩は猫である』(角川文庫 1963年)が出てきたので、久しぶりにめくってみた。山本健吉さんの注釈と解説を読む。漱石が古今東西・縦横無尽に行った引用の幅広さに改めて驚く。これをも勉強してみたい。とりあえず、新しい岩波の全集の『猫』の注釈を読みたいが、図書館が閉まっているので今は不可能。なにか手立てを探そう。
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ARの対談書き起こしはやっと半分(16分)終わった。対談している二人の口調の違いも反映させようとすると、難易度が上がる。しかもこれは共同作業なので、どこまで出来るか。
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黄砂が飛来している。午前中の空は晴れているのに黄色みを帯びている。そのせいか、喉がいがらっぽい。
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