このあと、風が吹き、桜の葉がほとんど落ちた。
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『量子の海、ディラックの深淵――天才物理学者の華々しき業績と寡黙なる生涯』、読み終えた。
題名は、実はこんなに長かったのか。ディラックという名前がポピュラーでないので、編集者が気を使ったのだろう。効果はあったのだろうか。
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369頁。「大数仮説」を言い出したが、まわりの評判はいまいち。こんなことを考えるのは時間の無駄と。
373頁。カピッツァ、自分の研究所でランダウを雇う。超流動を発見。
374頁。ラザフォードの葬儀。1937年10月。キャベンデッィシュ研の所長後任はブラッグ。
376頁。若きフレッド・ホイル、ディラックと話があう。
378頁。ヒトラー、オーストリア併合。シュレディンガー屈服。
380頁。ハーン、シュトラスマンがベルリンで核融合実験。
389頁。メアリー誕生。パパっ子。
410頁。マンハッタン計画。1942年1月。ディラックは不参加。
413頁。量子力学教科書にブラ・ケット記法を導入。1944年。
416頁。原爆投下。
420頁。プリンストンでファインマンに会う。最小作用の原理を議論したとファインマンは言う。
422頁。ウィグナーのファインマン論。第二のディラックだが、人間的。
424頁。ファインマンとシュウィンガー、独自の図形記法。朝永の量子電気力学も。
438頁。ディラックは映画など子供っぽい娯楽が好きになった。
441頁。ナイト爵位を断る。マンシー激怒。
445頁。1955年。米国がビザ発給を一時拒否。サバティカルをインドで過ごし、香港経由でバンクーバーに向かう。途中病気。ひどい黄疸に。
449頁。アインシュタイン死す。ヒーローの死に涙する。
450頁。プリンストンで足を骨折。53歳の老人だ。ケンブリッジに戻り弦理論を発表。
452頁。なにも業績なし。1956年。
413頁。スターリン死亡。カピッツァは心配する。ランダウは喜んだ。
455頁。パウリ死す。膵臓がん。1958年12月。
458頁。ハンガリー侵攻。1956年。
464頁。ハミルトニアンを一般相対性理論に適用。
466頁。ソルベー会議でファインマンに再会、ディラックは顔を忘れていた。
468頁。1962年10月。キューバ危機。
469頁。ボーア死。トマス・クーン(科学哲学)のインタビューを受ける。
473頁。ケンブリッジはディラックに冷たい。プリンストンは居心地良い。
474頁。ホーキング名声を得る。
476頁。形而上学的になる。
487頁。『2001年宇宙の旅』にはまる。
484頁。ついに、ルーカス教授職を退く。
496頁。フロリダ州タラハシーに住む。『一般相対性理論』(数式をいっさい使わない短い書物、これ読んでみたい)
523頁。1984年10月、死亡。享年82。
30章。ディラックは自閉症だったのか。
2段組、約600頁。著者は長い時間をかけて執筆。ところで、「伝記情報ソフトウェア」(ビブリオスケープ)を使ったらしい。このソフトに限らず、マンダレーなど、引用や索引を正確に管理・作成するソフトを使うのが、向こうではアタリマエなのだろう。
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夕方、国際宇宙ステーションがはっきり見えた。ビデオも撮ってみた。
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