『若き日の日記』(神谷美恵子)をなおも読みすすめた。
213頁から214頁にかけて。1944年9月11日。
晩学の苦労は、暗記がつらくなることよりも、集中が出来ないことだと書いてある。
219頁。1944年9月28日。
成績一番で卒業ということになり、答辞を書く。
220頁。1944年10月10日。
東大精神科医局へ入局。
222頁。1944年10月18日。
早速だが、
「本を買うことと読むことに対する無限の渇きに苛まれる己を愚かなものに思う。」
231頁。1944年11月28日。
「久しぶりに警報も出ず暖かな平和な日であった。」
232頁。同。
「将来は、医師として、あるいは教師としてどこかで小さな業を為しつつ思索と読書と執筆の生活を送りたい。」
244頁。1945年1月7日。
新年のプランを立てている。過去の日記や書き物に目を通し、膨大(50項目以上)なリストを作っている。
252頁。1945年1月25日。
本を買い、読んで気晴らしに努める。
258頁。1945年2月11日。
前日に「島崎先生」の部屋に呼ばれて菊池重三郎などと会う。「バンビ」の訳者。後に『アラバマ物語』を訳す。うっかりしていたが、「島崎先生」は島崎敏樹だった。藤村の縁者。
文筆生活にあこがれる神谷美恵子の先生には最適だっただろう。
278頁。1945年4月16日。
「「トニオ・クレーゲル」、「ヴェニスに死す」、「ブッデンブローク」等が一字一字心に苦しいほどこたえて来る。」精神科を選んだことによりこのことがより深刻化していると。
279頁。1945年4月17日。
「「表現」の神、美の神に真剣に仕えようと決心がつきかかっている。」
同日。朝5時半起床し、2時間ゆっくり書くという日課をたてる。でも戦時中なので続かないだろう。
296頁。1945年5月19日。
「フランス式随筆的でよい。どんどん題目をとらえて書いて行こう。読書も書くための勉強にしよう。そうすれば生きて来る。身につく。ディレッタントでなくなる。」
5月25日。空襲により罹災。
298頁。1945年5月29日。
軽井沢へ。
301頁。1945年6月8日。
父や弟が家事をまったくやらないのに、憤懣をいだく。独立を考える。
これには同情する。我が家はこの点では自慢できる。定年後はほぼ均等に家事を分担できている。
***
朝から雨。しかも午後ちょっとの間だが雪に変わった。いまはまた雨に戻った。
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