2021年7月17日土曜日

元気な孫と遊んでいると快く疲れる

今、夜10時半。7時頃孫たちが帰り、その後の家事を済ませて、やっと机の前に座ることが出来た。午前11時に駅まで迎えに行っていらい、体調が恢復して元気いっぱいの孫と遊ぶのは楽しいが体力が足りない。したがって今はぐったりして何も出来ない。

かろうじて、今朝発見した「良いニュース」をメモしておく。

「国立国会図書館が保有するデジタル化資料、247万点・2億2300万枚超の全文テキストデータ化に「CLOVA OCR」が採用」
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000003199.000001594.html

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日中の疲れを見越して、朝のうちに『読む・打つ・書く』の感想文第一稿を書いてみた。とりあえず最後まで書けたので、明日と明後日の朝推敲して、巻頭言原稿として完成させたい。


三中信宏さんの『読む・打つ・書く: 読書・書評・執筆をめぐる理系研究者の日々』(東京大学出版会)を読んだ。多忙な理系研究者でありながら著書も多くその上書評もたくさん書いておられる三中さんの、本とのつきあい方のレクチャーと帯に書いてある。内容は難しいのではないかと少し危惧したが、さにあらず。読み終えてみると自分のような「一般読者」にも参考になることが満載されており、大満足だ。
https://allreviews.jp/review/5552

そこで巻頭言にこの本のことを書くことにした。いつもはなかなか筆が進まないが、この本の教えに従ってどんどん書き(キーボードを打ち)始める。「打つ」のニュアンスはこの場合ぴったりだ。ライターズ・ブロックを打ち破るのには、この本の教えの通りにどんどん打つのが良いと思うようになった。この本を読んだ最大の効用はこれだ。

「第2楽章」の「打つ」を読んで、自分の書評に関する見方が、非常に狭いものだったと気づかせられた。短め(800字から1500字くらい)の書評ばかりを考えていたが、長い書評でないと意を尽くせないことがある。そして、書評を書く側の意見や知見を強く押し出さないほうが良いとも思っていた。たとえば科学書の書評をしっかりやるとすれば、かなりの長さと書評する側の意見と知見を論理的に説明する必要もある。

読者の専門分野における知識レベルを低いものと想定すれば、基礎的な知識にも触れる必要がある。書評対象本の論理構成を批評するには、本の長さと同じとは行かずとも、相当な長さを要求されそうだ。

文芸書の場合も実は同じようなことが言える。短い(新聞)書評で本の拡販に協力するか、あえて、炎上を恐れずに書評家の忌憚のない意見を言うかだ。植草甚一さんのエッセイ的書評の書き方(例えば『ぼくは散歩と雑学がすき』)のように、内容の長い引用と見せかけて、自分(植草さん)の意見を述べてしまうという高等テクニックを使うという第3の道もありそうだ。

そして文章を精力的に書くというこの本のなかの勧めがいいなと思っていたが、もっとよく考えると「三位一体」という話が素晴らしいのだと思うようになってきた。それは以下の部分で、今後の参考のため、引用させていただく。

「「書く私」と「読む私」と「評する私」はいつも一心同体だが、たがいに別人格をもっている。どのようにプロットを構成していくかを考えるとき、傍らの「私=読者・評者」に相談をしながら、「私=著者」が実際に原稿を書いていく――私が本を書く仕事場はある種の“工房”のようなものかもしれない。(236ページ)」

読み書きとよく言うが、その真の意味はこんなところにあるのだろうと納得してしまった。

なんらかの本の著者にはなれそうもないが、三中さんの仰るとおり自分なりの書評を書くことは本を読むたびに実行し続けたい。それを読書記録ブログの形で長期間続けていきたい。三中さんはブログのお手本も紹介してくださっている。
http://leeswijzer.org/index.html

読書生活を充実させるための良い目標ができた。(hiro)


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