2020年1月2日木曜日

『鶴見俊輔伝』後半を読むとせつなくなってくる

年賀状、少しだけ書く。まだ、大部分が残っているが、毎年このペースなので気にしない。箱根駅伝、明治大学は往路5位。意外に健闘。帰りもがんばって、ぜひシード権をとって欲しい。

夕方には、明治大学は全国大学ラグビー準決勝で東海大学に勝利。決勝は早稲田とだが、多分優勝するだろう。

この地区の明大父母会の元会長としては快哉を叫ぶしかない。

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『鶴見俊輔伝』を読むほうが大事だ。実に面白いのだが、だんだん身につまされることが増えてくる。

273頁。1951年、スタンフォードの客員研究員招致の話があったが、京都大学学生の原爆展賛同の署名をしたために、なかったコトにされる。その後鶴見俊輔は二度と渡米しなかった。

244頁。うつ状態に。51年5月。入院。

254頁。1952年1月、退院。論文が書けるようになり、分裂症ではないと喜ぶ。

267頁。1954年12月。東工大助教授になる。

297頁。竹内好と共に大学助教授の職を辞す。安保強行採決への抗議。声なき声のデモの中心として参加する。

307頁。共産党系のデモ隊は全学連主流のデモ隊を見殺しにする。結果、樺美智子が警官隊に殺害される。
(このあたり、私は現代の香港のデモを想起して、暗澹とする。)

319頁。結婚したが、またうつ状態に。谷中の小さなアパートに逼塞。

322頁。1960年。テロルの時代。樺美智子、河上丈太郎、浅沼稲次郎、岸信介、そして嶋中事件。
(この経緯も現在に照らすとこわい。)

331頁。「思想の科学」復刊第一号「天皇制」。有限会社思想の科学から出版。中央公論社が出さなかったものを自分たちで出版。

339頁。同志社での講義開始。1961年9月から。一つは「比較新聞学」、もう一つは「英紙講読」でリースマンの『孤独な群衆』を講じた。(この本も懐かしい。こちらは数年後にフロムの『自由からの逃走』を先輩の下宿で私的な読書会をしていたのだが。)


349頁。小田実はメキシコで鶴見俊輔のイトコ(佐野碩)と知り合い、シケイロスを紹介されている。その小田実に「ベ平連」の指導者を任せる。1965年4月。

362頁。1967年。脱走米兵をかくまう。その後、彼らはモスクワ経由でスウェーデンに向かう。脳梗塞で寝ていた鶴見祐輔も米兵を匿うことには理解を示した。

373頁。1970年春。同志社大を辞職。占拠学生を排除するよう警官隊を導入した教授会への抗議。その後、同志社大学に足を踏み入れることはなかった。

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夕方、南町田にできたグランベリーパークとかいうアウトレットを見たいという人に付き合う。広くて、足がつかれた。マルチスクリーンの映画館とやや大きな本屋(リブロポート)があるところは気に入った。


私とくま2頭


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遅い夕食で、北陸みやげの「かぶら寿司」と「ブリのたたき」を食べる。旨い。金沢や能登半島にはなぜ美味いものが多いのか。


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